(五夏)
すぐる。と呼ぶ声がした。
まぶたを開き、顔を上げる。あたりは真っ暗だった。夜よりも暗く、墨汁で満ちた水底のように何も見えない。目を開いたのか、瞬きをしたのか。それすらわからなかった。
眠っていた、そんな気がする。ぷつっと意識が途切れるように、記憶が終わっていた。永眠だ。そう考えて、鼻で笑いそうになる。
死んでも意識はあるものなのだろうか。それとも最後まで残るのは聴覚だ、というのが事実なのか。だから声が聞こえただけで、何も見えないのか。
「傑。こっちこっち」
おーい、と再び声が聞こえた。
顔を向けようとすると、体が動いた。頭、首、肩、と意識される。毛先が頬に触れる。視線の先があった。聴覚だけ残っていたわけではないらしい。ならば、なにか。ここはどこか。
真っ黒な水底に、淡く光るものが見えた。
「こっち、おいでよ」
提灯の灯だ。
和紙を透かしたような、小さく淡い灯り。ふわふわと揺れているのは、ろうそくの灯だからだろうか。
目を凝らす。丸いぶら提灯だ。雰囲気を出すために持ったこともあったな、と在りし日の記憶がよみがえる。
その柄を、知った顔が持っていた。
五条悟だ。
長身で、白い髪で、空に似た色の瞳をしていて、黒い服に身を包んでいる。あの容姿を持ち、私のことを「傑」と呼ぶ人物は一人しか知らない。
呼ばれるままに足を踏み出すと、地面を踏んだ。硬い。石畳みたいだ、と思ったが、きっと先入観だ。提灯の明かりが、古めかしい石畳の色も照らし出していた。
近づけば、徐々に自分の姿も見えてくる。袈裟だ。破れてもほつれてもいない。吹き飛んだはずの腕もある。五体満足。不調も疲れも痛みもなし。何も感じないともいえた。
「ここはあの世かな」
「そうだね」
「実際あるものだね」
「まあね。ここはまだ、あの世も道半ばだけど」
「三途の川?」
「そんな感じ」
なめらかな軽口が、唇の上をすべる。
十年ぶりだという実感は薄く、殺し殺された間柄であることも感じない。長く連れ添って、ずっとそこにあったものと接するような、妙な感じがした。よくも殺してくれたよねとも、迎えに来させて悪いねとも違う。そこに触れることすら、野暮ではないかと思ってしまう。
それでも私たちは十年分、確かに年を取っていた。四泊五日の任務で離ればなれになったあとのように、再会して早々「おかえり」とラリアットを食らわせたり、食らったりするほど若くもない。
「じゃあ行こうか」
待ち合わせをしていたかのようにそう言って、悟が歩き出した。提灯の明かりが、すうっと流れるように移動する。大きな歩幅でゆったりと進んでいく。その横に並んだ。どこに行くのだろうか。相変わらず、提灯の照らす範囲しか見えない。悟の姿と、私と、足元の石畳だけ。
「ところで、君も死んだのか」
ここをあの世だと認めただろう。と横目に見ると、からからと笑った。
「いんや。僕は違うよ。ただの案内役」
「それはご苦労なことだね。どこに連れて行ってくれるんだい? 地獄かな」
くっと喉を鳴らして笑う。百人を皮切りに、たくさん殺したからね。それでも全く、非術師鏖殺には足りないが。
あまり派手にやると、さすがに追いかけられてしまう。家族バラバラに逃げ回りたくはなかった。ああそうだ、家族はどうしたかな。
「え、違うけど」
思考を遮るように、軽い返事があった。
え、と言いたいのはこちらだった。目をぱちりと開いて悟を見る。目が合う。遠くを流れる雲の形が見えそうなほど、蒼い瞳だ。悟は再び前を、進行方向をむく。それから、肩を揺らして軽快に笑った。
「地獄か天国かって言うなら、天国かなー」
「なぜ」
良いことをしたら天国に行く。悪いことをしたら地獄に行く。簡単にそう区切ったとして、私は間違いなく、良いことをした人間ではない。
悟は提灯を持っていない方の手のひらを、ぱたぱたと振った。まとわりつくあれこれを振り払って、吹き飛ばすような動きだ。
「そもそもさ、良い子は天国に行けて、悪い子は地獄に落ちるってのがもう、生きている人間の願いだよ。あいつはムカつくし嫌いだし、悪い奴だから地獄に落ちてくれ、ってね。そんでいい子に生きるために、天国が必要」
「どちらも無い、ということか」
「そうでもないけど」
結局どちらなんだ、と抗議するように目を細める。悟は「ああ」と人差し指を立てた。数えるようなしぐさだったが、二本に増えることはなかった。
「仮にそういうシステムだったとしても、傑は天国行きなんだ」
「そんなわけがあるものか」
「だって傑、かなりの人を助けているでしょ」
気づいていないの。と問われ、顔をゆがめる。呪いを集めるため、人助けのように振る舞った覚えはある。だがそれがなんだ。その裏でそれよりも殺している。
「人数じゃなくてさあ、寿命換算ね。伸ばした方が多いんだ。若い子はあんまり殺してないんじゃない?」
「……若いと金もないし、切羽詰まってもいないからね。呪いを祓って返して、今後に期待した方が得策だっただけだよ」
「わはは!」
「まったく。寿命って、何歳で死ぬ運命とか、そういうものじゃないんだね」
「そういうのもあるよ」
「どっちなんだ」
「基本は肉体の寿命かなー。でも何歳の時にどういう事件に巻き込まれて死ぬ可能性、っていうのもある。それも寿命って言えるかな。で、呪霊に憑かれて死んでいたはずの子の寿命を、傑が伸ばしたりもしたわけよ」
適当なものだな。とため息を吐く。
真剣に取り合う話題なのか、これは。それともただの言葉遊びか。
「いまさらなんだが、君はなぜそんなことに詳しいんだ」
「そりゃ、案内役は、船頭だから」
行き先については詳しいんだよ。と悟は笑った。
私の知る限り、悟にそのような副業はなかった。あの世の案内役、など聞いたこともないが。離れてからの十年の間になにがあったのか。そもそもここは本当にあの世なのか。
だが私には、確かに死んだ覚えがある。ぷつりと途切れる意識の感覚。実は気絶しただけでまだ生きているのでは、と疑うが、ないな、と切り捨てる。
死んだ。
それは本当。証明は難しいけれど。
「それに皆さ、人間が思ってるより、人間の寿命とか善悪とか興味ないんだよ」
「いったい何様目線なのさ」
呆れた笑いがからりと漏れる。草履でなければ、足元でもカランと下駄が鳴っていたに違いない。そういえば音もしない。二人の話声は耳に届くが、それ以外はなにも。無音特有の、耳にじわりと届く雑音に似たそれもない。
きっと今の私は、魂だとかそういう存在なのだろう。だがその場合、五感はどこで受け取っているのか。網膜も鼓膜も、なにもない。見えて聞こえている気がしているだけなのか。
「まあ、あんまりに困った魂は消しちゃったりするけどね」
管理が面倒臭くなっちゃうし。とけろりと悟が言った。
さらりと恐ろしいことを言わなかったか、と横を見れば、目が合った。白いまつ毛に縁どられた大きな瞳がこちらを見ている。見て、あ、と口を開けた。
「あとあれ、傑の場合は、五条悟に命題を与えたのが大きいね」
「は?」
なんだって、と口を挟もうとしたが、その隙もなく悟が言葉を連ならせていく。
「あれがさー、かなりの人間を救ったんだよね。あれがなかったばっかりに、もうめちゃくちゃに人が死ぬ未来とかあんの。すごいよ。世紀末だよ。ノストラダムス……はもう終わってたか」
「いや、待ってくれ」
なんなんだ、と困惑を表情に載せている間に、悟がへらりと笑った。
「いやー傑、想われているね」
「君に?」
君に、五条悟に。
すでにないはずの胃の内側から、どうとも言葉にし難い感情がせりあがる感覚があった。想われている、君に、悟に。それよりもなぜ、それほど他人事みたいなのか。
悟は不意に目を丸くして、首を傾げた。提灯の明かりが大きく揺れた。
「あ、もしかして、僕のこと五条悟に見えてる?」
「……どういう意味だ」
この顔がこの世、ここはあの世だが、とにかく二つもあってたまるかと睨む。顔もだが、五条悟が二人も居たら、世界は滅茶苦茶になっている。絶対にだ。
灯りの揺れが治まると、悟が口元だけで笑った。
「僕は案内役だからね、定型はないんだ。相手によって見え方が変わるんだよ。遺してきた家族だったり、先立たれた伴侶だったり、好きな人、愛している人、憧れの人、とかとか。でも顔も見たくないほど大嫌いな相手だって場合もあったから、基準は分かんないんだけどさ」
「私は君に殺されたよ」
「そうみたいだね」
思えばいろいろと知っているなと、悟の姿をした、案内役を見る。姿だけでなく、話しかたもそっくりだった。聞いたことも無い理論を、当然のことのように話す以外は。
案内役はポケットに片手を押し込み、軽やかに足を踏み出した。見覚えのあるシルエットだった。網膜に焼き付いているというべきだろうか。十年経ってもずっと、鮮明に私の瞼の裏に住んでいる。
「殺されたわりにさ、僕に恨み言の一つも言わないね」
「はは、うっかり気分よく死んでしまったからね」
恨み言もなにもない。あるとしたら君、いや、悟のほうじゃないのか。言えよ、と言ったのに、全くあいつときたら。くっと喉の奥から笑いが漏れる。
「私の人生で、あれほど気分よく死ぬ瞬間は、あれをおいて他にはなかっただろうからね」
後にも先にも。十年前の、あの選択と別れを選んだ先には。
呪術師に後悔のない死に方はなく、まともな死体が残るような死に方もない。後悔がないというわけではないが、死体はわりときれいに残っただろう。大義として非術師鏖殺を掲げた私が、あれほどきれいに死ねるなど、考えてもみなかった。
「私だけあっさり死んでしまって、申し訳ないね」
皆どうしているだろう、泣かせてしまっただろうね、けれど強く育ったと思っているよ。私以外の家族もいるしね。きっと大丈夫でいてくれないか。
遺してきた顔を思い浮かべていると、案内役が首を傾けてこちらを見ていた。不思議なものを見るときの、悟の仕草だ。
悟ではないと認識してもなお、姿が別の者に変わることはなかった。私が望んだからその姿を取っているわけではないのだろうか。そう思うと少しほっとする気がした。あの世へ渡るための案内人に、と望んでいるとしたら、そんなむず痒いことはない。
「傑にとって五条悟ってなんだったの?」
「知らないのか?」
「出来事は知っているけど、人の心の中身までは」
「はは」
変な言い回し、と笑えば、案内人は好奇心で目を瞬かせていた。人ならざるものだろうに、人らしい。こうなってくると、人間らしい、という定義も曖昧だろうが。
「親友だよ」
蒼い瞳を見つめて、そう答えた。本物は聞けなくて残念だろうに、見た目だけの悟はにまっと口元を持ち上げた。
「はは、いいね!」
「ところでいつまで歩くんだ。三途の川は?」
「ああ、川はある人とない人がいるよ。傑はないタイプだね」
「それも人それぞれなのか」
「傑は人に運んでもらうようなタマじゃないだろ」
その答えに、今度はこちらが笑う。他人の漕ぐ船に乗せてもらってよしとしていたのなら、こういう人生ではなかっただろう。
目を伏せて、足元を見る。自分で歩く方が性に合っていた。確かにね、と思っていたのに「他人にオールを任せるな!」と案内役が言いだすものだから、本当に悟ではないのか、と再び疑ってしまった。
「この先には一人で進んで」
あるところまで進むと、そう言って案内役が足を止めた。
「三途の川を渡り切ったのかな」
「そんな感じ。はい、これはプレゼント」
「餞別じゃなくて?」
案内役は悟の顔をして、からからと笑っていた。差し出された提灯を受け取る。重さは感じなかった。けれど木の柄を握る感触はある。
先ほどまでとなりで揺れていた灯りが、今は手の中にあった。その灯りの向こうで、案内役が遠くを指さしている。
「真っすぐ行けばいいよ」
「どこまで?」
「どこかまで。僕は行ったことがないから知らないんだよね。人それぞれだし」
「あれもそれも人それぞれだな」
「まあね。傑、話しを聞いてくれるから、つい話すぎちゃった。死んだことを受け入れすぎじゃないか?」
「そうかな?」
どうだろうね。
提灯に目を落とす。中身はやはりろうそくだった。これが燃え尽きる前に、どこかに辿り着けるのだろうか。それとも燃え尽きることはないのか。
「ありがとう」
道案内と、それから提灯へのお礼を告げる。
案内役はなにも言わず、静かに笑っていた。そうしていると、本当に綺麗な男だった。案内役が手を上げ、別れを告げるようにひらひらと振る。
「迷わず進むといいよ。一本道みたいなものさ。たまーに呼び戻されることがあるけど」
「いま、また重大なことを言わなかったか?」
「この国は荼毘に付しちゃうからあまりないけど、土葬の国とかだと結構多いんだよね。死んじゃったと思って、手違いで来ちゃうこととか」
「生き返るのか……」
生き返ることもあるのか、と眉をひそめる。案内役は軽薄そうにとぼけた顔をして手を振っていた。
「あとは降霊術を使える術師とかがね、たまに居るから。一時帰国みたいなこともあるかな」
「帰省みたいに言わないでくれないか」
額を押さえると「滅多にないけど、念のためね」と声が軽やかに転がった。
「もう行くよ」
ため息を吐き出して、足を踏み出す。
たった一人、暗い水底のような世界を進み始める。
一人になるといっそう何もないように感じられた。ほう、と顔を上げる。それで何が見えるわけでもなかったが、重苦しさや不安のようなものは感じない。死んでいるから当然なのかもしれないが。あの世はもっと、おどろおどろしい場所かと思っていた。呪霊が吹き溜まる澱のように。
「さいごに!」
声がした。悟の声だ。いや、案内役の声か。
足を止め振り向くと、大きく手を振る姿が、うっすら見えた。それがやけに懐かしくて、思わず目を細める。傑、と呼ぶ声が聞こえてきそうだった。
「死後安らかであれって願われるほど、天国みたいなところに行くんだよ。生者の念は強いから、この呪術の国では尚更ね。傑はそれが特に強く現れてる。よほど強力ななにかに好かれてんの?」
その言葉に、ぱっと顔が思い浮かんで、まさかねと笑う。どうかな。肩をすくめると、案内役は手を真上に上げて、それから下ろした。
「じゃあね傑、気をつけて」
そして私はまた、歩き始める。
提灯の明かりがふわふわと揺れている。
ただただ歩いて、どこかへ向かう。
どこへ辿り着くのだろうね、と想像を膨らませていると、ふと呼ばれた気がした。傑、と。私のことを傑とだけ呼ぶ人は、意外といないものだ。気のせいかなと思いながら、振り向いたが、特に何も見当たらなかった。
また進む。
ゆらゆらと進む。進んで進んで、振り返る。
「傑!」
って、君さ。
私は火葬の国に住んでいたはずなのに、まったく困った奴だな。