海でも割りに行こうか

(離反なしIF五夏)

       

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 十七歳の夏のことだ。
 高専三年、バカみたいに呪霊が湧いた年。
 学生の本文は勉強だと説教を垂れたのは誰だっけ、と文句を言いたくなるほど任務が舞い込んできた。掃いても掃いても赤い葉が降ってくるもみじの木の下で、掃き掃除をしている気分だった。寮でだらける時間も少なく、級友に会えば「久しぶり」なんて挨拶になる。
 そういう夏。
 それでもその日、悟は寮にいた。
 朝早くから始めた任務を午前中に終わらせ、昼過ぎに高専に帰りついた。静まり返った寮に一人で戻り、仮眠するつもりで目を閉じる。
 じんわりと沈んでいった意識は、一時間後に呼び戻された。
 ドアをノックする音が聞こえたからだ。目を開けた先、サングラスのない視界に映った窓ガラス越しの夕日の色が、燃えるように赤かったことを覚えている。
 はーい、とあくび交じりに開けたドアの先に、傑が立っていた。
 傑と、小さな女の子が二人。手をつないでいた。
「すまない、少しの間預かってくれないか」
「は、誰。なに、隠し子?」
「いや、今日行った村の子で」
 こいつ珍しくテンパってんな。とまず思った。
 軽口への反論なし、繰り返す瞬きの合間に視線があちこちに飛ぶ。左右の少女二人に手を握られていなければ、額を押さえていたことだろう。
 そもそもあの傑が、ろくな挨拶もなしと来た。
 いつもならノックの後「今少しいいかい」だのなんだの言う。直接要件に入ることはまずない。親しき中にも礼儀ありだよ、だそうだ。よほど急いでいるときや、かなり怒っているときは別だが。
 つまり今、傑は急いでいるのか。
 三人とも砂ぼこりにまみれている。ビルの爆破解体にでも巻き込まれたのかと疑うほどだ。傑の黒髪が、うっすらと白くぼけている。
 少女二人にはあちこちに絆創膏が貼られていた。服は古ぼけているのに、その絆創膏だけ真新しい。
 傑の手をぎゅうっと握ってこちらを一瞥もしない、黒髪の子と金髪の子の二人。
 預かって、とはこの二人のことだよな、と腰に手を当て体を傾ける。覗き込むように視線を送るが、やはり二人はこちらを見もしない。傑の手を離した途端宇宙の果てまで吹き飛ばされ、消えてしまうかのような必死さを感じる。
「もしかして誘拐?」
「まあ、結果的には、そうなるかな」
「マジ!」
「それで、その件ですぐ夜蛾先生のところへ行かなくてはならないから、その間二人を見ていてほしいんだ」
「そんくらい、いいけど」
 こちらを見ない二人もだが、傑もやはり相当切羽詰まっている。ほとんど目が合わない。合っても一瞬。撫でるように交わって、俯くように通り過ぎ、床板の上に落ちる。
「本当にすまない。硝子に頼もうと思ったんだが、居なくてね。あと、できればお風呂にも入れてあげてくれないか。絆創膏は防水タイプだからたぶん大丈夫だけど、難しそうだったら濡れタオルで拭いたりしてあげてほしい。頼み事ばかりですまないが」
「いやまだ預かって風呂淹れろの二個だし」
 どんと任せろ、と言ってやれるほど子守りは得意ではないが、それくらいはできる。たぶん。
 それにここまで余裕のない傑からの頼みごとを突っぱねるほど、人でなしでもない。そうでなくても近頃元気がなさそうだった。少し痩せたようにも見える。もしかすると、やつれたという方が正しいのかもしれない。
 傑は少女二人の手を離し、そっと背中を押した。けれど離れることを嫌がるように、二人は再び手を掴む。困ったように傑の眉毛がハの字に下がる。けれど目元には慈しみのようなものが滲んでいた。
 誘拐の言葉に似合わず懐かれている。
 元々傑には人たらしの一面があるので、好意を寄せられる姿はよくみる。それをかわすように流すのも得意だった。こうして慈愛を返す姿を見るのは、初めてかもしれない。
「大丈夫だよ、この人は私のともだちだから」
「傑くんのお友達の悟くんでーす」
 合いの手を入れたが、無視された。視線すらこちらに向かない。七海みたいだ。七海も良く悟を無視する。そう思うと、傑は雑でも返事はしてくれる分優しかった。
 悟をのけ者にしたまま、三人だけの劇場は進む。
「大丈夫、必ず迎えに来るから」
「ぜったい?」
「もちろん」
 穏やかな笑みを浮かべると、ようやく二人が手を離した。再度傑に背をおされ、おずおずとこちらへ近づいてくる。ここで初めて目が合ったので「ようこそー」と手を振ったら、困ったように眉を寄せられた。
「悟」と呼ばれる。
 傑が肩に掛けた任務用の鞄からビニール袋を取り出すと、悟に向け差し出した。
「着替えが入っているから、お風呂から上がったらこれを着せてあげて。あ、値札も切ってあげてね」
「オッケー。つかさ、なにがあったわけ」
 ちょっとくらい教えてくんない、とのぞくように視線を合わせる。なにをそれほど急いでいるのか。
 自分で風呂に入れてから夜蛾のところに向かってもいいだろうし、預けずとも連れて行くという選択肢もあるはずだ。普段の傑ならそうする気がした。こどもの扱いが得意ではないだろう悟に預けるかも怪しい。
 それでもなおということは、それだけの理由があるのか。
 じっと見つめると、傑は眉を寄せ、視線を外した。言葉を選ぶように、ゆっくりと口元を動かす。
「……村を一つ、地図から消してしまった」
「RPGの導入かよ!」
 ウケる魔王じゃん山消し飛ばした俺よりヒデェ! と腹を抱えて大げさに笑う。
 怒るかな、呪霊を出してアラートを鳴らすかな、と様子をうかがうも、傑は気が抜けたように笑っただけだった。
「そうなんだ」
「マジ? まさか生き残りが居たとはな、って言う練習しておいたほうがいい?」
「残念だけれど、村人はみな生きているよ。それにそのセリフを言うのは私だろ」
「大臣的な奴が先に、生き残り発見の知らせを受け取るかもしんねえじゃん」
「私が魔王で君は大臣なのか」
「あっしまった。ダブル魔王ってあり?」
 RPGのラスボスが二人居るのは無しだろ、いやその場合は合体しそうだな、イニシャルが同じなのはそのための伏線だったか。
 顎に手を当て考えていると、傑が深々とため息を吐きだした。
「二人のこと、丁重にもてなしてね」
「ガキのもてなしかたとか知らねー」
「じゃあ、よろしく。必ず戻るから待っていて」
 少女二人の頭をなでると、傑は足早に去って行った。
 軽口を叩ける程度には落ち着いたらしいが、焦りが消えたわけではないようだ。大股な足音を残し、あっという間に姿が見えなくなる。
 そして取り残された三人で、見つめ合う。
 傑とのやり取りの結果、にわかに興味を持たれたのか、他に見るものがなくなったからか、先ほどよりじっと見つめられた。
「とりあえず入んなよ」
 どうぞ、と促す。
 二人は顔を見合わせた後、小さな歩幅で二人三脚をするよう敷居をこえた。
 そうっとドアを閉める。まずは風呂に入れるからだよな、と砂っぽい二人の姿を見下ろす。傑から受け取った荷物を床に置き、浴室のドアを開けた。
「お風呂溜めるから、適当に座っといて」
 あっち、と部屋の中を指さして浴室に入る。
 靴下を脱いで洗濯機へ投げ込み、バスタブの上にある蛇口をめいいっぱい捻った。ごうごうと流れ出るお湯を眺めながら、ほう、と息を吐く。
 村を消し飛ばして幼女を誘拐してきたって、なんだ。
 傑らしからぬ行動がしっくりこない。だからこそテンパっていたのだろうが。このところ思いつめているようすがあったが、今回のことと関係があるのだろうか。
 ずいぶん小さな女の子二人だった。小学校にあがっているのかも怪しい。それに絆創膏だらけだった。任務地であったというその村で何かあったのだろうか。
 思わず村を消し飛ばしてしまうほどの、なにかが。
 ぼんやり考えている間に、湯面がどんどん上がっていく。はっとしてお湯を止める。入るのは自分ではなく、あの小柄な少女二人だ。
 これぐらいかなと首を傾げ、バスマットで足裏を拭く。戸棚からバスタオルを二枚取り出してから、脱衣所を出た。
「お風呂溜まったぞー」
 部屋の真ん中に向けて声をかけたが、二人の姿は見えなかった。まさか逃げられたのか。そうだとしたら傑にどう言ったらいいのか。
 慌てて振り返えると、そこに二人が立っていた。
 手を握り合ったまま、先ほどの位置から全く動いていない。気が抜けるような、不安になるような、変な気分になる。こどもってもっとわがままで無邪気で収拾がつかないものじゃないのか、と首を傾げる。天内でももう少し無邪気だった。
「お風呂入れそう?」
 念のため確認すると、一拍置いて小さな頷きが返ってきた。「お風呂ひさしぶりだね」と金髪の子がもう一人を勇気づけるようにささやいている。
 今までどういう生活をしてきたのだろう。傑と比べてると砂っぽいというより埃っぽかった。村を消し飛ばした時に浴びたものだけではないようだ。
 今日の傑の任務は、どういうものだったのだろう。
 最近あまり会えていなかったから知らない。聞く機会がなかった。一年の頃はどこに行くにも一緒だったのに。知り合ってからの時間は増えていくばかりだというのに、この頃は知らないことのほうが増えている、そんな気がした。
「お風呂の説明するから、こっち来なよ」
 二人を手招きして、浴室に入る。
 これを捻るとお湯がでる、これが体洗うやつ、こっちは髪を洗うやつ、コンディショナーは、まあいいか、これは顔を洗うやつ。そう説明していたら「洗うやつ多いね」とささやく声が聞こえて不安になった。
 未だ手を握り合ったままの二人のつむじを見下ろす。
 六眼には色が映っている。二人とも術式を持っている側だ。だからこそ、こんな状態なのだろうか。御三家では術式を持たないほうが嫌な思いをするものだが、それ以外の世界では全くの逆なのだという。
「タオルはここに置いてあるこれを使って。着替えも値札切ったら持ってきて一緒に置いとく。じゃ、なんか困ったことあったら呼んで」
 あっちに居るから、と声をかけて外に出ようとすると、おずおずと見上げられた。こうもはっきりとした視線を向けられたのは初めてだったので、足を止めて首を傾げる。黒髪の子が小さく口を開いた。
「げとうさまは、どこいったの?」
「え、様?」
 夏油様って言ったのか、と目を丸くする。
 幼女に様づけで呼ばれるって、傑はなにをしでかしたのか。
 うーんと唸って腕を組む。
「たぶん任務の報告に行った。そのうち帰ってくるよ」
「どれくらい?」
「さあ。明日の朝には戻ってきてんじゃない」
 傑は反省文を書くのも上手いので、普通なら二時間もあれば帰ってくる。だが今回は村を消し飛ばしたときた。全く予想ができない。その上、わざわざ二人を預けていくほどだ。すぐには戻れないのだろう。
 不安そうに二対の瞳が見上げてくるので、パッと笑顔を作る。これは傑の真似。怯える非術師に向けているのをたまに見る。
「迎えに来るって言ってただろ。信じてあげれば?」
 だからまずはお風呂な、傑もそう言っていたし。
 促せば二人とも頷いた。今度こそ脱衣所から出る。
 廊下に置きっぱなしにしていたビニール袋を掴み、勉強机に向かう。ペン立てからハサミを抜き出し、値札を切っていく。色違いのワンピースが二着と、小さな下着が入っていた。それから使いかけの絆創膏の箱と、消毒液のボトル。
 服をこっそり脱衣所に置いて戻る。中からは水音と、小さな話し声が聞こえてきたので大丈夫そうだ。
 ほ、と息を吐く。
 気づけば部屋の中はずいぶんと暗くなっていた。カーテンを閉め明かりをつけ、ベッドの縁に腰を下ろす。そのまま両手を広げて、後ろに倒れ込んだ。
 思えば、傑の口から友だちって聞いたのは、さっきのあれが初めてだ。
 友だちだと思われていたのか。
 悟とて、そう思っていなかったわけではない。傑との関係に名前をつけるなら、親友だとすら思っている。けれど本人にそう言ったことはない。わざわざ言う機会もなかったし、それでいいとも思っていた。名前をつけてもつけなくても、確かめ合わなくても、関係が変わるわけではない。そう思っていた。
 けれど言葉にされると、少しこそばゆい。
 もぞもぞとベッドの上で転がる。
 しかしいくら友だちだからといえ、小さな女の子二人の預け先として正しいのだろうか。
 硝子が居なかったのなら、女の先生に預けるという手段もあったはずだ。いや、どうだろうか。誘拐と村を消し飛ばしたことが事実なら、上層部がどう動くか分からない。二人の身柄を押さえられ脅される可能性もないとはいえない。もとより手におえない特級二人のことを、快く思っていない節もある。
 となると、悟の元に連れてくるのが一番安全、ということになるのかもしれない。あの状態の傑が、そこまで考えていたかは怪しいが。
 しばらくすると、ほかほかに温まったなった二人が出てきた。
 濡れたタオルと脱いだ服を持ち戸惑いながら顔をのぞかせるので、急いで体を起こして大股に近づいた。「もらうよ」とすべて回収し、洗濯機に放り込む。
 棚からドライヤーを取って、二人を誘導しながら部屋の真ん中へと戻る。ベッドの上に転がしていたクッション二つを床に投げた。最近は使われていなかったが、傑と自分用だ。
「髪乾かすからこっちおいで」
 クッションを叩いて呼ぶと、おっかなびっくり近づいてきた。借りてきた猫とはこういう状態をいうのかもしれない。
「順番なー。どっちから乾かす?」
「……美々子から」
 金髪の子がそう言って、黒髪の子を差し出すように背中を押した。
「ところで二人って姉妹、友達? 名前なんていうの?」
「双子。こっちが美々子、私が菜々子」
「あー、なるほどね」
 双子、呪霊が見える、村住まい、なんて役満だ。
「おっし、んじゃ美々子からここ座って。菜々子はそっちに座って待ってて」
 それぞれ指さした先に、二人は大人しく座りこんだ。
 ドライヤーのスイッチを入れ、美々子の髪に風を合って当てる。髪は細いし頭は小さい。全部小さいといってもいいくらいで、なんとなく不安にある。ふっと吹いたら、あっという間に死んでしまいそうだ。
 黒髪を温風になびかせながら、考える。
 傑の部屋に泊めてもらったとき、こういう感じのもてなしを受けた。概ねそれをなぞっているのだが、果たしてこの双子に施すものとして合っているのだろうか。
 寝るならお風呂入っておいでよ、タオルはこれをつかいな、ドライヤーはここね、ええ乾かすの面倒くさいって君ね、しょうがないな乾かしてやるから座りな、こら濡れたまま横になろうとするな枕が濡れるだろ、おいふざけるなよ。だっけ。
「よし美々子終わり。ほい次、菜々子と交代な」
 部屋に来た人をもてなすことなどないから分からない。遊びに来るのは傑と硝子くらいだが、あの二人は人の部屋でも勝手をする。もてなされ方は五条家にて経験があるが、恭しく頭を垂れ、手土産を献上し、お世辞をつらつら述べながら顔色をうかがうのは、この場において適切でないとさすがに分かる。
 ということで、二人の髪の毛を乾かし終わったあと、どうするか困った。
「おーわり!」と手を離すと、菜々子と美々子はすぐにくっついて一つのクッションの上に座った。
 離れていると心細いのかもしれない。「これも使っていいよ」ともう一つを押しやり二つのクッションをくっつけると、やっぱりくっついて座った。
 このあと、どうしたらいいのだろうか。
 お風呂に入れてあげて、という傑からの指示は達成した。あとは丁重にもてなせだ。もてなしとは何か。こういう時、傑はどうしていただろう。腕を組んで首を捻る。
「あ、お腹減ってる?」
 餌づけだな、と閃くも首を横に振られた。
「少し食べたから」と美々子が答えた。
「えー、じゃあ、なにかしたいことは?」
 そう聞いてみたが、明確な返答はなかった。なにかってなに、と言いたそうな目で見つめられる。
 全然分からない。同級生の中で子どもの扱いが一番上手そうなのは傑、その次が硝子、自分はてんで向いていないという認識だ。
 困りはてた結果、棚から飴の袋を取り出した。
「飴たべる?」
 困ったときは飴だ、たぶん。傑もポケットに飴を隠し持っていることが多い。何かと便利なんだと言っていた。
 いちごみるくと書かれた包みを、手のひらに乗せて差し出す。小動物の餌づけみたいだ。ほらほら、と揺らすと菜々子が二つつまんで持っていった。美々子と分け合って口に入れる。
「あまい」とつぶやいた二人の目が、少し輝いていた。
「チョコもあるよ」
 調子に乗って個包装のチョコレートを取り出すと、今度はそれぞれが一つずつ持っていった。少し感動してしまう。これは餌づけ成功なのではないか。
 チョコを掴んだまま、口の中で飴をコロコロと転がしている。お腹は空いていないけれど、満腹というほどでもなさそうだ。そして甘いものも好きそう。そういえば飲み物を出していない。
「ココアでも淹れるか。ちょっと待ってて」
 よっこいしょと立ち上がり、キッチンでミルクパンを火にかける。牛乳を温めている間に、折り畳み式のテーブルを部屋の真ん中に置いた。主に傑とお菓子を食べながらゲームするときに使うやつだ。食べ物を床に置くと苦言を呈してくるため導入された。
 ミルクココアを二杯淹れ、二人の前に持っていく。
「どーぞ」
「ありがとう」と二人は言った後、ふわふわと揺れる湯気を見る。けれど手はつけない。
「あれ、ココア好きじゃなかった?」
「……まだ飴が口の中にあるから」
「あー……、ココアが先のが良かったのか」
 こういう時傑なら上手くやるのにな、と頬杖をつく。
 おもてなしとは難しい。もてなされるばかりの人生だったので。
 けれど二人は顔を見合わせて少し笑った、ように見えた。
  

       ◇◇◇
  

 くあ、とあくびをこぼした時、足音が聞こえてきた。待ち人きたる気配に、顔を上げる。
 寮の入り口付近に、自販機とベンチが置かれた、ちょっとした談話スペースのような場所がある。ここに今、悟以外の人影はない。真面目なやつなら寝ている時間だ。
 日付はとっくにかわっていた。じっとりとした夏の暑さもいくらか和らぎ、一日の中で一番涼しい時間が近づいている。とはいえ、暑いことにかわりはないが。
「よっ、遅かったな」
 玄関扉をくぐって中に入ってきた人影に向け、声をかける。
 まさか人がいるなど思いもしなかったのだろう。傑が目を丸くして足を止めた。
「……悟か。二人は?」
「とっくに寝たって。俺のベッド占拠して」
「、あれ、今何時」
「二時」
 そんなに、と傑が壁掛け時計を探して顔を上げた。
 もうそんな時間というより、そんなに拘束されていたのか、だろう。四半日だ。それで解放されただけマシなのでは、とも思えるが。
「ってことで傑の部屋に泊めてくんない」
「ああ、それは、もちろん」
 迷惑をかけたね、とでも言いだしそうな疲れた顔に向かって、缶コーヒーを投げる。傑は驚きながらも、きちんと受け止めた。
「ありがとう」と言う、その声にすら疲れが滲んでいた。
 元々やつれているようすがあったが、この四半日で拍車をかけていた。げっそりというか、げんなりか。
 察するに、夜蛾だけに留まらず上層部も出張ってきたのだろう。村一つ消し飛ばした上に、少女二人の誘拐つきだ。
 予想だが、誘拐へのお咎めはなしだろう。捜索願を出されないからだ。だが住処を失った村人の避難先の用意などで、そこそこ面倒なことになっただろう。人を現場に送り出すばかりなのだから、後処理くらい文句を言わずにやってくれよ、と思いもする。
 傑は棒立ちのままぼんやりと瞬きをしたのち、思い出したようにベンチに座った。かしゅ、と音をたてプルタブが引き上げられる。
「……ぬるいな、いつからここに居たんだ」
「十時くらいから」
「四時間も?」
「ゲームしてたけど、さすがに充電切れたわ」
 横に置いたPSPを指さす。双子が寝てしまったので、部屋を出てきた。
 それにしたって久々のソロプレイはつまらなかった。二人でマルチプレイをしたことを思い出すばかりで味気ない。飽きて一度コンビニまで行き、アイスを食べもした。
 ここ数か月で一番、時間を怠惰に消費した瞬間だったと思う。以前は当然のようにあった日常だというのに、すっかり忘れていた。
 手元に置いていた、サイダー缶をあおる。一時間ほど前、傑に渡した缶コーヒーと一緒に買ったものだ。缶の表面についていた水滴が跡形もなくなるほどぬるく、炭酸も抜けていた。ただ甘いだけだ。
 傑はコーヒーを舐める程度に飲んだのち、両手で缶を握りこみ、考えるように背を丸めて床を見た。静かに息を吸い込む音が聞こえた。
「一か月の停学と、謹慎だそうだよ」
「いいね、夏休み延長じゃん」
「はは、そうなるね」
「そんだけ?」
「あとは始末書の山と、私が抱えていた任務が悟に引継ぎになるくらいかな」
「マジ? 別にいいけどさあ」
「いいの?」
「任務増えるくらいはどーってことないし。あ、てことは、寮には謹慎中の傑がいつでも居る感じ? 任務帰りにあわせて飯とか作ってもらっちゃおっかな」
「それくらいならいいよ、帰ってくる時間を連絡してくれれば。何がいい? チャーハン、焼きそば」
「ホットケーキ、生クリーム山盛り」
「一番手間がかかるじゃないか」
「ワッフル、生クリーム山盛り」
「手間が変わってないよ」
 あきれたのか気が抜けたのか、傑は少し笑ってコーヒーに口をつけた。
 空きっ腹にブラックコーヒーは良くないんだったか。傑もココアしておけばよかったかもしれない。
「上層部は、任務を増やす方向の処罰にするつもりだったみたいだよ。私が逆らえない縛りを設けて。今年は呪霊も多いし、その割に術師は足りないから」
「都合のいい飼い犬化かよ」
 げぇと舌を出すと、くっくと喉を鳴らして笑った。それに懐かしさを覚えて、ちょっぴり寂しくなった。
「夜蛾先生がね、学生なんだから停学処分が適切だって。任務もさせないから報酬も無し。今回の件で支払われる予定だったものも没収ってさ」
「それ、なんか意味あんの?」
 なにも困らないだろう、と眉を持ち上げる。
 特級術師ともなれば、報酬の桁も違う。傑は散財する方でもないから、これまで貯まる一方だっただろう。一か月給与が入ってこないくらいで生活が苦しくなることもない。そもそも学生で、寮暮らしだ。任務を増やすが報酬なしなら、罰にもなるだろうが。
「そうなんだ」
 そうなんだよね、と気の抜けた笑みを浮かべる。
「一か月、二人につきっきりでいられる時間をくれるみたいだよ。優しいな、夜蛾先生は」
「そういうことね。双子の処遇は」
「それはまだ。今日は私の処分の決定で時間切れ」
「オーバーだろこれ」
 夜蛾が粘ったのか、上層部がごねたのか。特級の手綱は欲しいだろうし、揉めたのだろうなと想像できる。村人の件はきっと丸投げだ。どこか別のお偉いさんが奔走して、どうにかするのだろう。
 ふと沈黙が降りた。
 遠くからカエルの鳴き声が聞こえてくる。それでも夜だから、蝉が鳴いていない分静かに感じた。
 その静けさに溶けるように、「本当は、皆殺しにしてやろうかと思ったんだ」と、傑がささやいた。
「すべて消えてしまえと思ったよ」
 顔を横に向け、その表情を見る。
 双子を預けに来たときは砂まみれだったのに、今はきれいになっていた。夜蛾と上層部がもめている合間にでも、シャワーを浴びたらしい。したたかなのか、夜蛾の気遣いなのか。
「おぞましかった」
 傑は缶コーヒーの口を覗き込みながらも、別の何かを眺めているように見えた。ぞろりとにじみ出るのは、たぶん憎悪や嫌悪だとか、そういうものだろう。
 やっぱり甘いココアにでもしたらよかった。ああでも夏だから、別のものの方がいいのかもしれない。せめてカフェオレとか、そういう甘いやつ。
「双子からなんとなーく聞いた」
 双子が凶兆で災害の原因だとか今時アホらし術師家系かよ、と指先を振る。『お子様が見えないはずのものが見えると言いだしたらこちらまで』という電話番号でも用意すべきなのではないか。そうしたら術師を探す手間も省ける。
 空っぽになったサイダーの缶を放り上げ、呪力でくしゃくしゃに小さくした。限界まで小さく潰してしまえば、ないのと同じになる。この要領で人も消せる。
 ある程度の術師にとって、鏖殺は実現可能範囲だ。
「怪物がいっぱいでてきて村をメチャクチャにする中、ゲトーサマが牢屋から出してくれて、一緒に逃げた、って言ってたよ。あんなちっせぇ子どもに様づけで呼ばせるってどうなの」
「……そこか。様じゃないよって言ったのに。それに村を滅茶苦茶にしたのは私だというのにね」
「双子そこは気づいてたよ? スッとしたってさ」
 たぶんあれは、ざまあみろ、という感情だろう。
 飴を舐め終わったあと、ココアを飲みながらぽつぽつと話してくれた。あそこから助けてくれた傑を様づけで呼びたくなるほど感謝していて、呪霊に破壊される村を見て胸がスッとしたということを。
「で、傑は?」
 問いかけると、傑は顔を上げ、悟を見た。
「スッとしたわけ?」
 口の端を吊り上げる。視線の先で、黒い瞳がかすかに光った。
 憎悪、嫌悪、殺意、どろりと渦巻く黒の中で何かが光る。そうに見えた。
「どうだろう、したかな」
「はは! いいじゃん」
「私は、やはり、非術師は好きになることはできない。限界だ」
 傑の不調の原因はそこらしい。きっと去年の夏からだろう。沸々と煮えたぎらせてきたのかもしれない。
 それを今、こうしてぽつぽつと口にする意味はなんだろうか。
 村一つ消した理由を隠し切れなくなったからか。吐露する相手に選ばれたことを光栄に思うべきだろうか。それとも、最早抑えきれないほどの激情に育ってしまったのだろうか。
「べつに嫌いでよくね? 非術師大好きで守りたくて術師やってるってやつのがレアだろ。つかそんなやつ居る? 俺だって術師じゃないやつってか、知らないやつに興味ねえし」
「悟はもう少し、って、今の私が言えた義理でもないか」
「ま、傑はそういうこと考えながらやるタイプだよな。でもさあ、村消えたけど誰か死んだわけじゃないんだろ。ならよくね? それどころか二人助かってんだし」
 その二人が呪術師に育てば、他の誰かを助けることもあるだろう。とはいえその助けた誰かは、別の呪霊を生み出すことに加担するのだが。
 呪霊発生に一切関与せずに生きるのは、きっと無理だ。呪術師でない限り。
「けれどあの村に呪霊が湧くかもしれない。急にまるごと消えたからね、恐れられるだろう」
「表向きはどういう感じで処理されんの?」
「うーん山だしね、土砂災害じゃないか」
「そりゃそうか。ま、呪霊が湧いたらそんときは祓いに行って、傑の手持ちに加えればよくね?」
「マッチポンプじゃないか」
 まったくもう、と傑が額を押さえて目を伏せた。
 まともなまま、術師として生きるのはきっと辛いのだろう。その結果、居なくなった術師も見てきた。
 傑がコーヒーを一気に煽り、空き缶を横に置いた。
 はあ、と息を吐いた傑に腕を伸ばす。なんとなくの思いつきで抱き着くと「なっ」と声を漏らした。いくら夜で涼しいといえども、くっつくと暑い。
「やっぱ痩せてんじゃん。一か月であの双子と仲良く太れよ」
「もしかして私は、慰められているのか?」
「痩せてんのは事実だけど」
 胴回り細くなったよな、となぞって離れる。「やらしいぞ」と傑が言った。その言葉のほうがやらしい気がした。
 もし傑が、村を消すのではなく、村人の方を消していたらどうなっていたのだろう。
 呪術師から呪詛師にクラスチェンジすることになり、呪術規定にのっとって処刑か。
 そう思うと変な話だ。呪術師は法廷で裁かれず、内輪で処理される。そのかわり、呪詛師を殺しても裁かれないのだが。
 ベンチから立ち上がる。ギッと木材がわずかにきしんだ。
「そんじゃそろそろ、傑の部屋のクーラーガンガンに効かせてくっついて寝よーぜ」
「寝るだけでいいのか」
「お前な、自分の顔色見てから言えよ」
 鼻先を指さしたが、傑は「はは」と気の抜けた笑いをこぼすだけだった。ほら、人を指さすものじゃない、とか言わない。思い起こせばそういうやりとりも、近頃さっぱりしていなかった。
 のっそりと立ち上がったのを確認し、一歩先に歩き出す。短い木造の廊下だ。もう二年半住んでいる。傑と出会ってからも、二年半。
 ふと思い出し、振り返る。
「あ、傑、おかえり。言うの忘れてたわ」
「……ただいま」
「次はやる前に言えよ。村消すと怒られるから、一緒に海でも割りに行こうぜ」
 モーセ降臨か、とかいったニュースになろう。
 そうケラケラ笑って歩き出せば「うん」と後ろから聞こえた。
 うん、ってなに、と振り向くと、傑が俯いて目を伏せていた。
「え、なにどした、泣いてる?」
「違うよ、疲れただけ」
「そりゃ、説教八時間は疲れるだろ」
 そう言えば、傑は吹き出すように笑った。

     

       2
  

「大学に進学するぅ?」
 ひっくり返った声が、傑の部屋に響き「声が大きいよ」とたしなめられる。周りの迷惑うんぬんの前に、単純にうるささかったからだろう。小さいテーブルに向かいあうと、予想以上に距離が近い。少し手を伸ばしただけでどこにでも触れられそうだった。
 初耳なんだけど、と机を叩くと、言い忘れていたな、という顔をされた。
 内緒にしていたわけではないらしい。すでに至極当然の事実として傑の内にあり、傑の世界ではとっくの昔に常識になっていたのかもしれない。だから積極的に流布することもない。そして悟は今、知ることになった。
「大学に進学しようかなって思っているんだけど、どうかな」ではなく「大学に進学するんだよ」と傑は言った。「なにこの参考書」と机の上に置かれていた分厚い本を、ペラペラめくったことへの回答だった。
「たしかに最近いつ見ても勉強してんな、とは思ってた」
 任務任務任務の連続で、勉強時間が潤沢とはとても言い難い環境だが、赤点を取るほど成績が悪かった覚えもないので不思議だったが、そういうことか。
 この頃の傑は、教室で会えばノートを開いていて、こうして部屋を訪ねても勉強をしている。
 今日は平日だが授業がない。というより、悟は昨日の任務が遅かったため、一日休みになった。つい先ほど起きて昼食をとったところ。ちなみに硝子は反転術式が必要な案件に呼び出され外出中。傑は関係ないが、一人で授業を受けることになるし、このところ忙しかっただろうから息抜きでもしなさい、ということで休みを与えられた、らしい。忙しいのはこのところではなく、いつもだ。
「教員免許をね、取りたくて」
「えっ、先生になんの?」
「そうだよ。二人が高専に入ってきた時に、教えられる立場になりたいんだ」
「何年後の話だよ」
 菜々子と美々子は、今年小学校に上がったばかりだ。
 ランドセルのカタログとにらみ合う傑の姿も、まだ記憶に新しい。入学先についても悩みに悩んでいた。呪術師向けの学校は高専から。小学校から中学校までは、一般の学校に通うことになる。「そんなに悩むとハゲるぞ」と言って関節技を決められたことも、つい最近のことのようだ。結局ここから一番近い小学校に決めていた。
 双子は現在、呪術高専女子寮の一部屋を借りて仲良く住んでいる。
 術師の子どもを預かる専門の施設などないからだ。どうしても一般の施設には預けたくなかったらしい。傑は最近そういう、術師と非術師の線引きをはっきり表に出すことが増えた。
 というわけで、傑を筆頭とし、高専関係者みなで面倒をみているような状態だ。女子寮なのは単純に、男子寮に住まわせるのはよくないだろう、という話になっただけ。
 傑の次に、硝子が気にしてよく面倒をみている。となりの部屋になったことでのよしみか、村一つ消し飛ばして連れ帰ってきた同級生へのよしみか。歌姫が在学中は、女四人でも遊んでいることも多かった。
「つか、術師教えるのに教員免許はいらないだろ。高専でも持ってんの半々じゃねえの」
 一般科目を教える、教員免許を持った先生は別にいる。
 傑はシャーペンの芯を繰り出し、ノートのページをめくった。
「そうだけど、ちゃんとしたくて」
「まっじめー」
「あと二人が小学校が嫌になった時、ここで私がすべて教えられるようにしたい」
「いや、過保護すぎねえ?」
「あんまりいい思い出とは言い難いんだよね、小中ともに」
「そうなの?」と聞けば「まあね」と適当な相槌が返ってきた。「呪霊が見えるとなにかとね」
 そういう感じのやつね、とテーブルに頬杖をつくと「今思えば、それだけでもないのだけれど」と意味深な言葉がささやかに続いた。だがそれ以上そのことを話すつもりはないらしく、問題文を指でなぞり始める。
 テーブルの上には、マグカップが二つと、傑のノートと参考書が数冊、筆箱が一つ。それほど大きなテーブルではないからぎゅうぎゅうだ。残ったわずかな空間も、今は悟の肘が埋めている。
 呪術師の家系では呪霊が見えないことで苦労するが、それ以外の世界は全く逆だという。
 見える方が苦労する。
 それがどういう状態なのか、想像がつかなかった。時々祓除に赴いた先で向けられるああいう目を、常日頃向けれられるのだろうか。見えない物への恐怖と、それを制圧する人間への嫌悪。
 見えず倒せず産むだけ殺されるだけで大変なことだと考えはすれど、その程度だ。結局悟は呪術師の世界に戻るだけ。そこで暮らすわけではない。
 そこ、で暮らしていた傑は、具体的に何がどう大変かまでは話さない。それでも「いい思い出ではない」と漏らす程度には素直になったのかもしれない。
「ま、小学校の先生になりに行くつもりじゃなくてよかったわ」
「免許が取れるころには、二人とも卒業してしまうからね」
「まさか中学行く気じゃないよな?」
「どちらにしても、術師とかけ持ちするのは無理だ」
 教職も大変なんだよ、授業だけじゃなくて色々、部活とかもあるしね。と参考書にマーカーを引きながら言う。
 そう思うと呪術高専の先生は楽かもしれない。呪術の授業分は面倒を見なくていいし、部活もない。任務で生徒が居ない日もある。補助監督を兼任していると大変かもしれないが。
「かけもちといえば、私が大学に行っている間はあまり任務が受けられなくなるから、また悟にしわ寄せがいくと思う。すまないな」
「マジ?」
「特級案件となると、私か君かだからね。悟なら余裕だろ」
「ひっでーの。ま、余裕だけど」
「ああでも、特級や特異な術式を持った呪霊は可能な限り取り込みたいところだね。どうしようか」
「一緒に行けば早くない?」
「特級二人を同じ現場に派遣するなんて贅沢だ」
 傑があきれたように目を伏せる。
 いまさらだが、しゃべりながら勉強をするとは器用なものだ。
 押しかけて邪魔をしているのは悟だが、いいよと言って招き入れたのは傑だ。
 開かれた参考書のページを勝手にめくると「こら」といって指先で弾かれた。話しかけるのはいいが、妨害はだめらしい。あまりちょっかいをだして叩きだされてはたまらないので、手を床の上に戻す。
 本当はもう一人特級術師がいるのだが、あいにく滅多にお目にかかれない。特級呪霊に遭遇した回数より少ない。なにせ一度しか会ったことがなかった。傑は二回会ったらしいが。
「そーいや、硝子はズルして二年で医師免許取るっつってたけど?」
「そうらしいね。ズルもだけど、硝子を四年も大学に取られては困るんだろうね」
「傑もそうすれば?」
 具体的には知らないが、そういう手段があるのだろう。
 棚に置かれた個包装のチョコレートを盗み食いする。とはいえ、半分くらいは悟のものだ。「食べてもいいよ」と言って持ち込み、置きっぱなしにしている。傑は滅多に食べないが、双子はよくつまんでいる。だから傑は大して何も言わない。
 教員免許の件もそうだが、傑は双子をずいぶんと大事に可愛がっていた。
「私もズルして二年で教員免許を取るってこと?」
「そゆこと。つか高専からなら三年に編入できんじゃないの? そしたら二年でも取れるっしょ」
「元は四年かかるものを、二年で取るのは大変じゃないか」
「こっちだって傑を四年も大学に取られたら困るっつーの。ま、二年でちょっと厳しいなってなったら、そこをズルすりゃいいだろ」
「簡単に言うなあ」
「特級術師権限振り回していこうぜ!」
「はは、五条家の圧力もついてくる?」
「つけるつける」
 ぺらぺらでふわふわの相槌を打つと、堪えきれなかったように、くっと傑が笑い声を漏らした。握ったままのシャーペンの先が小刻みに揺れる。
「てことで、今日は息抜きしよ」
 開かれた参考書を勝手に閉じ、その上に腕を置き、身を乗り出す。
 意図を察した傑が薄く笑う。その唇にキスをしながら、シャーペンを奪い取った。
「息抜きって言うけど、構ってほしいだけじゃないのか」
「そうだよ、って言って欲しいわけ?」
 構われたいし構いたいのが、正直なところだ。
 こうして二人でだらだら話すことすら二週間ぶりだ。だらだらといったら、勉強していた傑は怒るだろうけれど。
 シャーペンを筆箱に押しこむ。こら返せ、と言われなかったので、許可と同意と受け止める。もう一度キスをしようと顔を傾けると「ちょっと待った」と逆側に避けられた。
「うわ、避けられると結構傷つく……」
「悟がそんな繊細な感傷を持ち合わせていたことに驚く、じゃなくて、するなら悟の部屋でもいい?」
「いいけど、その心は」
「菜々子と美々子が小学校から帰ってきたら、ここに遊びにくることが多いから」
「ははぁ」
 後始末をする時間も必要だし、そういうことをした直後の部屋で双子と接したくないということか。
 一瞬、間男になったかのような変な気分になった。ポジションとしては両親の方が近いはずなのに。とはいえ、双子は悟にさして懐いていない。成功したのは餌付けだけだ。今は若干ライバル視されている。
「え、待って、下校何時」
 ふと気づいて壁掛け時計に目をやる。小学校低学年の帰宅は早い。すでに昼を過ぎていることを思えば、いつ帰ってきてもおかしくないのではないか。
「今日は、あと一時間くらいで帰ってくるはず」
「えー、やっぱ夜にする?」
 一時間でもできるけれど、準備もまだだ。終わったあとに傑はシャワーを浴びたいだろうし、そうするとそこそこ急ぎになる。少し惜しいが、夜にゆっくりしたほうがいい気がする。明日は明日で任務があるが、それはいつものことだ。少し寝不足になったところでどうということはない。二三日寝なかった末に刺されたこともあるが、その相手もすでにこの世にいない。
「でも少し、そういう気分になってきちゃったんだよね」
 悩む悟の前で、あろうことか傑がそう言った。「二週間ぶりだし、想像したかな」と付け加えてノートを閉じると、さっと立ちあがる。
 目を丸くしながらその姿を見上げる。頭の中をいろいろなものがぐるぐると駆け巡っていた。
 ここまできて、夜までやらない、とはとてもではないが言えない。けれど慌ただしく突っ込んで抜いて終わりも嫌だった。
 ぴんと閃き、パチンと指を鳴らす。
「じゃあ、抜き合いっこだけでどう。あとは夜」
「……悟、そういうところ可愛いよね」
「ハアー? どこがだよ、意味分かんねえ」
「ほらそういうところだ」
 人の考えを読んだみたいに、傑が笑う。少し気恥ずかしくなって、がばりと立ち上がる。
 勢いそのままに「善は急げ!」と駆けだせば「まあどちらかというと善だよね」と小バカにするような相槌が聞こえてきた。

     

       3
  

「呪術教えて」
 部屋を訪ねてくるなり、菜々子がそう言った。
 となりに並ぶ美々子も同じ考えのようで、まっすぐな視線が二対、こちらを見ている。
 珍しさに、思わずサングラスを持ち上げた。視界をさえぎるものがなくなり、二人の表情が見えるようになる。
 真っ黒なレンズを通せば景色は見えなくなるが、目を閉じても呪力は見え続ける。六眼は呪力を映すことをやめないらしい。
 景色と呪力の入り混じった視界の中で菜々子と美々子が、わずかに唇を尖らせていた。大変不本意だが他に選択肢が思いつかなかったので渋々、という表情なのだろう。
「珍しいね、俺のとこくんの」
「だって、夏油様忙しそうだし」
「俺だってめちゃくちゃ忙しいんですけどー」
 特級という肩書に最強まで乗せられては、忙しさに忙しさを重ねても足りない。じっとしている暇などないくらいだ。
 誰にも祓除できない案件は、当然のように悟の元へやってくる。その上、同じ肩書を持っているとある人物が「たしか悟はこの日空いていますよ」とリークしているらしかった。
 おかげで余計に忙しい。
 暇な日を教えているのは遊ぶためであって、勝手にマネージャー業をさせるためではないというのに。
「夏油様の邪魔をする時間があるのに、忙しいわけがない」
「邪魔ってひどくね? それを言ったら二人もおんなじだからな」
「五条が邪魔をしなかったら、もう少し時間があるはず」
「ちょっと待った、さっき、悟お兄さん呪術教えて、って言われた気がしたけど気のせい?」
「呪術教えて、としか言ってない」
 ぎゅっと握った小さな拳が目に入る。
 夏油様と五条という呼び方の違いが、双子から受ける扱いの違いにそっくりそのまま現れていた。
 傑の空き時間奪い合う仲なのでしかたがない。
 とはいえ悟は、双子と傑とまとめて遊ぶこともやぶさかでないのだが、双子からしたら邪魔をされているのと同じらしい。硝子に「絡み方がウザいからだろ」と紫煙を吐かれたこともあった。全く失礼してしまう。
「とりあえず入んなよ。なにか飲み物淹れたげよっか」
 相手の感情がなんであれ、わざわざ訪ねてきたことに変わりはない。入り口で仁王立ちしている二人をてまねきする。
 ちょうど二人いるから阿形、吽形だなと閃くが、口にしたら間違いなく蔑んだ目を向けられるので言わずにおく。最近そういう機微がすこし分かってきた。
「今日は何飲む?」と戸棚を開ければ「ミルクティー」と美々子が答え「ロイヤルで」と菜々子が付け加えた。
 部屋に来るたび美味しいおやつをあげたり、美味しい飲み物を淹れたりした結果、餌づけにのみ成功していた。こっそり夜中にチョコレートを与え「虫歯になるだろ」と傑に怒られる係もしている。
 棚に置いた黒い缶を手に取り、ティーパックを三つ取り出す。牛乳と一緒に鍋に入れ火にかけながら、二人のようすをうかがう。
 慣れたようすでクッションを取り出し、定位置に収まっていた。
 傑と一緒にゲームをしにくることも多く、この部屋への滞在にもすっかり慣れたものだ。結果、クッションもマグカップもスプーンもフォークも、どれも四つずつに増えていた。
 部屋を片づけておいてよかった、とふと思う。
 元々荷物は少ないが、双子用の滞在用品に加え、近頃では傑の待避所の一面も見せており、少しものが増えていた。主に、この双子から隠したいものが持ち込まれている。お酒とかおつまみとか、ローションとかゴムとか。
 傑の部屋ではうっかり見つかる可能性があるが、悟の部屋を双子が漁ることはまずない。気遣いなのか、単純に心の距離なのかは分からないが。
「お待たせー」
 できあがったミルクティー入りのマグカップ三つを持って、双子の元へ向かう。おやつを置く用の小さなテーブルの上に並べると「ありがとう」と口にしてからそれぞれ持っていった。
「で、傑には聞いてみたの?」
「呪術の話?」
「そ。あいつ教えたがると思ってたけど」
「一回話したけど、あんまり教えたくなさそうだったから」
「まだ早い、って言われたし」
「あー、子どもは戦わなくていいとか、そういう感じ?」
 双子は今年、十歳になった。
 呪術師の家系なら、修行を始めていてもおかしくないどころか、少し遅い。一般家庭出身なら早いほうだが、その場合まだ術師の世界に足を踏み入れていないことが多い。
 基本がスカウトの呪術師世界、見つけてもらわなければ知る由もない。
「まあ俺としては、身を守るくらいはできたほうがいいと思っているし、教えてもいいよ。早速今日からやる?」
「やる」という頷きは、双子らしくきれいに重なった。
 あつあつのミルクティーにふーっと息を吹きかけ、一口飲む。美味しいけれど、アイスにしても良かったかもしれない。最近少し暑い。
「じゃあまず、その憑いている呪霊を祓うところからやるか」
 それ、と天井に張りついた、爬虫類っぽい呪霊を指さす。とかげというかカメレオンというか。
 菜々子と美々子が指先を追うように顔を上げる。
 それからわずかに眉を寄せ、悟の顔を見た。
「いいの?」
「てか、それ、いつもいる?」
 傑の呪霊だよね、と確認する。とはいえ呪力でそうと分かるので、同意を求めたに近い。
 二人は仲良く「いる」と頷いた。
「過ッ保護ー」
「あれ、私たちのことを守っているんじゃないの?」
「そこまで力ないと思う。盾になって消えるのが精いっぱいじゃない? で、察知した傑が飛んでくるか、別の呪霊が飛んでくるかだろうな」
「防犯ブザーみたい」
「それも最強セコムが飛んでくる」
「なんか、ちょっとかわいそうだね」
 そういうもんかね、と首を捻る。盾が精いっぱいの呪霊が、悲しいとかを認知するのかは怪しいものだ。その程度の呪霊なので、運用コストも低いのだろう、と思っている。
 しかし異常に対して反撃をオートで行える呪霊などがいれば便利だよな、と腕を組む。
 自分の術式だけでなく、取り込んだ呪霊を介しその術式を行使できる呪霊操術は、そういうところが強い。必要とあらば、それらしい術式を持った呪霊を探すこともできる。
 前にマッチポンプの話をしたな、と思い出した。欲しい術式を持った呪霊が生まれるよう誘導することもできるのだろうか。倫理観はさておき。
 双子は天井を見ながら「最近はいつもあれだよね」とか「この前の気持ち悪いって言っちゃったから」とか話している。チェンジのお願いもできるのか。
 二人とも、呪霊が見えるだけでなく、術式も持っている。傑も二人が高専に入ることは必然と思っているのだから、今から教えてあげたらいいのに。ありふれた小学生生活を楽しんでほしいとか思っているのか、なんなのか。
「よし!」
 パンと手を叩くと、視線が集まった。
「まずは呪力の込め方からはじめます! 五条先生もしくは師匠と呼ぶように」
「それはイヤ」
  
       ◇◇◇  

 端的な拒否をものともせず、その後ミルクティーを飲みながら、物への呪力の込め方の勉強と実践を進めた。おやつにクッキーを出すことで、そこそこ和気あいあいと稽古は進む。
 その合間に「家入さんの説明より分かり易い」とひそひそささやいているのが聞こえてしまった。傑の次にここに来たわけではなく、その前に硝子の元に行っていたのか。
 順当といえば順当か。悟は早くて三番目。確かに硝子の説明はよく分からないよなと、こざっぱりと擬音のみで話す姿を思い浮かべる。
「よーし! そろそろ外で実践に入ります!」
「えー」
「傑に、一日でここまでできるようになったのかいすごいね、って言われたくない?」
 パンパンと手を叩いて先導すると、嫌そうな顔をしながらもスッと立ちあがった。悟のノリに付き合うことに疲れて嫌なのか、本当に疲れたから嫌なのかは分からないが、傑に褒められたい気持ちが勝ったらしい。
 寮を出て、校庭へ向かう。
 二人とも飲み込みが早く、部屋でできることがもうない。というより、あれ以上やったら部屋がめちゃくちゃになる。最悪の場合、壁が吹き飛ぶ。
 先頭を悟が進み、その後ろに双子、さらにその後ろに呪霊といった具合に並ぶ。ブレーメンの音楽隊を想像して、いや全然似ていないなと思い直す。
 屋内では天井にくっついていた呪霊も、壁のない場所では地面をはっていた。傑を知らない窓や補助監督などに見られたら「小学生の女の子二人を呪霊が追いまわしている」と通報されるのではと心配になる光景だ。
 それもまあ面白いか、と地面に落ちていた小石を拾う。
「それじゃ適当な石を拾って、さっき練習した感じで呪力をこめて、あいつに向かって投げてみて」
 二人は存外素直に足元の石を拾い、山なりに投げた。
 小さな手から石ころが飛んでいく。しかし呪霊に命中することはなく、かなり手前、それも明後日の方向に落ちて終わった。
 うっかりしていたけれど、二人とも戦闘訓練もなにも受けていないただの小学生だった。呪力の捻出はできても、離れた場所の的に石を当てることは難しいらしい。
 困ったぞ、と腕を組む。「近づいて投げてみる?」と提案してみたが、呪霊は一定の距離を保つようになっていた。離れれば追いかけてくるが、近づけば離れていく。
 ぽいぽいと小石を頬っていた美々子の頬が、むーっと膨らんでいくのが見える。菜々子も唇を尖らせていた。
「ねえ、本当にいいの?」
「怒られない?」
 石を投げる手を止めた二人が、振り返って悟を見た。あまりに当たらないから嫌になってきたらしい。
 右手でブイサインを作って答える。
「祓われるの前提のやつだから大丈夫だって。その辺でいっぱい捕れるし、傑もそういうの一定数ストックしてる」
「ほんと?」
「怒られたら似たようなの捕りに行けばいいよ」
「呪霊って捕れるの?」
「四級とか虫取り網で十分。それに怒られるとしたら、百パー俺」
「たしかに」
「こら納得すんな」
 しかしこのままでは当たる気がしない。
「作戦へんこー! 集合!」と手を上げると、不審がりながらも素直に近寄ってきた。「そんじゃこれを使って。俺が選んだ良い感じの石」と言って、さっき足元で拾ったなんの変哲もない石を渡す。
「これにできるだけ呪力をこめる」
「こめるだけ?」
「そ。でもさっきよりいっぱい。ぎゅーっと」
 もっともっと! と声をかけると、二人ともの眉がムッとより、手元に呪力が集まっていく。
 これくらいかな、というところで「よし! 投げろ!」と声を飛ばす。
 ちっちゃな体で振りかぶり、勢いよく小石を放った。
 呪力を込めさせたが、それで飛距離が伸びるわけでも、コントロールがよくなるわけでもない。それだけ込めればあの四級呪霊を祓うには十分かな、というだけだ。
 無下限をこっそり使い軌道修正と後押しをし、呪霊に命中させる。
「あたった……!」
 二人の嬉しそうな声が重なると同時に呪霊がはじけ、黒いもやに変わって消えた。
 同時に掌印を構える。
 無下限を張った悟の頭上に、一級呪霊が降ってきた。
「呪霊と傑の両方が飛んでくるパターンだったか」
 無限に阻まれ、呪霊の動きがビタリと止まる。
 悟と双子を囲う無下限外の地面が、上方からの突風でえぐれた。
 続けざまに人影が降ってくる。
 顔を上げると、かかと落としの体勢で止まる傑が見えた。
 無下限がなければ脳天に当たっている位置だ。これは信頼と受け取っておこう。上空からの落下速度を加えた傑のかかと落としを食らったら、さすがに寝込む。
「よっ傑、おかえりー。任務終わったの早かったな」
「いきなりなんのつもりだ悟!」
 それはこちらのセリフでは、と飛び退いた傑の姿を目で追いかける。サングラスは部屋に置いてきたので、怒っている顔も良く見えた。
 傑はざりっと音を立て土を踏み、勢いそのままに今度はきれいな回し蹴りを繰り出してきた。その爪先が、悟の顔の横でぴたりと止まる。
「傑が近くまで戻ってきてるの気づいたから、やったに決まってんだろ」
 無下限の展開範囲を広げ、押し戻す。同時に駆け出して、挑発するように大きく手を振り、おまけに投げキッスを飛ばしたら、呪霊が送り返されてきた。
 それを今度は飛んで避ける。ちゅーしよ、とささやいてくる呪霊ではなかっただけマシと思うべきだろうか。
 菜々子と美々子から距離を取れると、やりたい放題呪霊を飛ばしてきた。今日は近場の一級呪霊の祓除ではなかったのか。元気が有り余っているようで安心だ。
「あんま呪霊だすとアラート鳴るぞ!」
「ご心配どうも、全て登録済みだから安心してくれ」
 あのまま部屋で呪霊を祓おうとしていたら、やはり壁が吹き飛んでいたに違いない。「つーか、誰の仕業かすぐ分かるだろ。あんなマジの呪霊飛ばすなよ。部屋に居たら寮ごとぶっとんでただろ」
「誰の仕業か分かったから、遠慮なく叩きこんだに決まっているだろ」
「え、照れる」
 とはいえ、呪霊の術式は使用してこないあたり、じゃれ合いの範囲内ではあるらしい。
 傑の蹴りと、呪霊が交互に飛んでくる。拳を使ってこないのは、ビニール袋を持っているからだろう。コンビニのものだった。
 飛んで避けて弾いて、校庭を暴れまわる。
 前に本気で喧嘩したとき、夜蛾に「お前たちの本気の喧嘩は怪獣大戦なことを自覚しろ」と言われたことが頭をよぎった。確かに本気で暴れまわったら、特撮のセットよろしく、街は踏みつぶされてぺちゃんこになってしまうかもしれない。
 こういう時は大抵夜蛾が乱入することで終了になるのだが、今日仲裁に入ったのは、菜々子と美々子だった。
「夏油様ごめんなさい!」
 ぴったり重なった双子の声に、傑と一緒に足を止める。
 振り向いた先に、手を握り合った二人の姿があった。
「私たちが五条に呪術教えてっていったの」
「呪霊を祓ったのも私たちなの」
 ふり絞った二人の言葉に、傑がこちらを向く。そうなのか、と視線で問われ、正直に手を上げた。
「呪霊狙えって言ったのは俺でーす」
「……それは、だろうね」
 怒気が吹き消えたように、傑が気の抜けた笑みを浮かべた。
 あっさりと背を向け、双子のもとへ駆け寄っていく。黒い髪が風になびいていた。傑は最近ハーフアップにすることも増えた。あれはどういう心境の変化なのだろうか。
 それにしても、双子が庇ってくれるとは思わなかった。
 傑が二人の目の前でしゃがみこむ。
「二人が呪霊を祓ったの? すごいね。けれどそういうことをするなら、私にも相談してほしかったな」
「傑が教えてやんねーからだろ」
 後ろからゆっくり近づいていけば、傑は振り向いて悟を指をさした。人を指さしてはいけませんって言うくせに、自分はいいのか。指先から逃れるように、首を傾ける。
「悟も悟だ。君こそ事前に連絡をしてくれ。急に呪霊が消えたら、なにかあったと思って焦るだろ」
「俺の仕業ってすぐ分かるだろうしいっかって思って祓わせましたー」
 堂々と答えると、傑はあきれたようすで額を押さえた。
「それは事後報告だ」
「夏油様、おこってる?」
「悟には、ちょっとだけ」
「おい」
「私たちも、夏油様を守れるくらい強くなりたかったの。でも勝手にやって、ごめんなさい」
 思えばどうして呪術を習いたいのか、その理由は聞いていなかった。特級術師のこの男を「守りたい」と思うやつが、今この世界にどれだけいるのだろうか。
 俯いた二人に向け「そっか」とつぶやいた傑は、凄く柔らかな声をしていた。
「私こそ菜々子と美々子の気持ちを聞いてあげられていなかったね。今度は私とも呪術の勉強をしようか」
「いいの?」
「もちろん」
「でも夏油様忙しいでしょ」
「うっ、それは」
「俺教えよっか」
 傑のとなりに並び提案すると、目を細めた双子に睨まれた。夏油様がいるなら五条は用済みということなのだろう。
 対照的に、傑は驚きで目を丸くしていた。
「悟が、人に、ものを?」
「いや、今日二人の面倒みてたの俺だからな」
「面倒みられてない」
「あっそうか。あれ、二人はいつから悟に呪術を教わっていたの?」
「えっと、三時くらいから」
「……今日の?」
「うん」
「二時間でここまで?」
「三十分くらいはおやつ食ってたよ」
 補足すると傑の目が、今日一番のまん丸さを見せた。黒目小さいな、なんて思いながら眺める。
 傑は顎に手を当てると「思えば、テスト勉強の時も、悟の説明は意外と分かり易かったな……人あたりがよくないだけなのか?」と考え込んでいる。よく人に向かって、君は失礼だななどというが、傑もそこそこ失礼なことをたびたび言う。
「じゃあ今度、一度二人で一緒にっていうのは? 私も悟がどうやって教えるのか気になるし」
「えー。夏油様だけでいい」
「おいこら」
 双子とにらみ合うが、傑がおかしそうにのどを鳴らして笑うものだから気が抜ける。全員の気が抜けたところで、傑が立ちあがった。
「とりあえず、今日のお勉強は終わりでいいのかな。実はアイスを買ってきたんだ。溶ける前に食べない?」
「食べる!」
 元気のいい三人分の声が重なって、再び双子と見つめあう。
 向こうは睨んでくるが、悟としては「お、声がかぶった、少し親近感」くらいの気持ちでいた。「ははは」と傑が声を出して笑う。
「ごめん、悟の分は無いんだ。いると思ってなかったからね」
「ウソだろ!」
「嘘だよ」
 あるよ、と傑が手に持っていたビニール袋の中身を見せてくれた。色々な味のパピコが入っていた。ちゃんと四つある。半分こにしたら足りるよ、の理論でもない。
「半分こにすれば、二つの味が楽しめて楽しいかと思ってね」
 それはまた新たな火種なのだが、年上なのでそこは双子に譲ってやってもいい。
 それより今は、双子と同じように頭数に入っていたことが、妙にこそばゆかった。

     

       4

  

 上空から見下ろしたそこは、一言でいえば「田舎」だった。
 重なり合うように山があり、谷に沿うように道が走り、道のそばには民家の群生地がいくつか。そして古びた赤い鳥居が意味深に、一番高い山の入り口に刺さるように建っていた。あとは川が流れていているくらいか。
 どこもかしこも木ばかりがわさわさと青々茂っていた。少し遠くに目を向ければ、駐車場の広いスーパーが見えるが、それだけだ。
 他に特筆すべきは、現在帳が降りていることくらいか。
 それも今目の前で、シャボン玉がはじけるようにぱちんと消えた。どうやらお仕事は終わったらしい。
 地上に傑の姿が見えた。
 そこを目がけ、風をきって自由落下する。地面すれすれのところで無下限を発動させ、華麗に着地する。勢い余った風が傑の前髪をなびかせた。ついでに砂も巻き上がったので、うっとうしいと言わんばかりに目を細められた。だがそれだけ。文句を言うのもあきるほど、慣れ切った日常になっていた。
「よー、終わったの?」
「たった今ね。そういう悟は」
「俺もさっき終わったから寄った」
「人の任務地を覚えられるほど成長したんだね」
「元から聞いた分は覚えてるって。ま、今日は近かったし、この後ひまだし」
「近かったかな?」
 考えるように傑が首を傾げた。
 きっと日本地図でも思い浮かべているのだろう。たしかに、高専に戻るには方角がだいたい一緒、くらいの近さではあった。それでも無下限で飛ぶことを考えれば、大した距離ではない。距離という概念ですらないのかもしれない。
「傑も一級案件だったよね」
「ああ。欲しい術式だったから回してもらったんだ。土着の呪霊でね、二十年周期くらいで発生するそうだよ」
「へえー」
「小さい頃怖かった出来事を、大きくなって自分のこどもに話して聞かせる風習があるそうだ。それで、だいたい二十年周期」
「ウゲェ、リポップさせんなよ」
「とはいえ少しずつ、周期は伸びているらしいけどね」
 それって結婚が遅くなっているとかそういうことか、と思ったがわざわざ口にはしないでおいた。また二十年か二十数年後に類似の呪霊が発生することに変わりない。
 そのころ自分たちは四十代に足を突っ込んだところか。変わらず呪術師をしているのだろうか。きっとしているのだろう。他に選択肢もない。
「悟は今日はもう帰るのか? それなら一緒に連れ帰ってくれるとありがたい」
「補助監督は?」
「勝手に帰るから気にしないで、って最初に伝えてある」
「呪霊で飛ぶわけ」
「そのつもりだった。町まで行ってタクシーを拾ってね」
「けど五条悟ってイケてるタクシーが捕まったから、それ使って直帰って?」
「そういうことだね」
 わずかに肩をすくめて傑が笑った。苦笑というべきか。
 特級呪術師五条悟をタクシー代わりに使おうとするのは、傑くらいなものだ。親しくないやつは話しかけてもこないし、近しいやつらは拒否してくる。「夏油って怖いもの知らずだよね」と煙草をふかす硝子の姿が思いだされた。
 傑は携帯電話を取り出すと、電話をかけ始めた。お疲れさまです、終わりました、避難勧告解除していいですよ、とか言っているので相手は補助監督だろう。
 避難勧告を出したから人が全くいないわけね、と周囲を見渡す。六眼が拾うのは残穢ばかりだ。民家の中も空っぽ。誰もいない。
「さ、帰ろうか」
「もうちょい待ってれば村人帰ってくんだろ。感謝されていけばいーのに」
「嫌だね」
 素早く拒否した傑の眉が寄った。隠さず取り繕わず嫌悪感をにじませるが、ふっと息を吐き出せば、何事もなかったかのように表情は元に戻る。
 あの夏以降、傑は嫌な顔を素直に見せるようになった。
 大概一瞬だが、悟の前では少し漏らす。「皆殺しにしてやろうかと思ったんだ」なんて聞かせた相手にまで隠す必要もない、と思っているのだろうか。信用といってもいいのだろうか。それなら嬉しいかもしれない。
 それから、あまり非術師に近づかなくもなった。
 呪霊の種類によっては、祓除に伴い住人を避難させることもあるが、今日の避難勧告はきっと傑の希望というだけだろう。そのあたりは補助監督にすべて任せ、無人の村で一人祓除を済ませ、住人の帰還を待たずに立ち去る。
 ここは特に、呪霊を定期的に発生させるほど信心深い村の人間だ。居合わせたら囲まれてお礼を言われて、野菜やら果物やらをこれでもかと持たされるに違いない。
 そういえば腹減ったな、と携帯電話を取り出す。
「せっかくだし何か食って帰んない?」
「それなら買って帰ろう。寮に戻って、物件探しもしたくてね」
「食べながら? 行儀悪いとかいっつも言うのに」
「今日は菜々子と美々子もいないしね」
 なるほど。教育上悪い行動も、見せる相手が不在ならセーフということらしい。
 双子は今日、京都から出張に来ている歌姫と、硝子と一緒におでかけしている。ランチをしてショッピングをするそうだ。特に歌姫は在学時から双子を妹のようにかわいがっているため、なにかと連れ出していく。それに対して傑は「女性同士じゃないと分からないこともあるから、正直助かるね」なんて言っていた。ただのお父さんだ。
「じゃ、ピザにしよ」
「いいよね、久しぶりだし」
「よっしゃ」
 携帯電話でさっと調べて、適当なピザチェーン店に電話をかける。マルゲリータと、季節限定で少し変わったシーフードミックスの二枚を注文した。すぐできると言っていたので、寄り道もせず直行でよさそうだ。
「ほい傑、手を出して」
「握手?」
「手ぇ逆、恋人つなぎね」
 左手で右手を掴み指をからめると「くくく」と傑が笑った。なにが傑のツボに入ったのか分からない。もしや双子との差別化をはかったのがバレたのか。
 別に恋人って関係じゃないけどね、なんて思いながら術式を発動させ、パッと飛ぶ。恋人ってあれだろ、付き合ったり別れたり。俺たちはそんなに減ったり増えたりしない。
 あえて名前をつけるなら親友かなと思いつつも、直接口にしたことはない。俺たちは最強だよな、よりいくらか照れ臭かった。最強はただ、事実に過ぎない。
 そんなこんなもないほど、あっという間にピザチェーン店の屋上に着地する。
「こら、街中でワープはやめなって」言っているだろう、までは言わせず「見つかんないって」と返した。
 打ちっぱなしのコンクリートのふちに立ち、下を覗き込む。あまり人は歩いていなかった。お昼過ぎの中途半端な時間だからだろうか。驚いてこちらを指さしている人影、なんてものは当然見当たらない。
「もし見つかったら、突如空中に現れるグッドルッキングガイ、って二人で都市伝説になろうぜ」
「その場合、私と君に似た呪霊が生まれるのか?」
「どうなんだろ。UFOの呪霊もいんのかな」
「さあ、いるかもね」
「そんじゃ今度探しに行かね?」
「ツチノコじゃないんだから」
「チュパカブラとかも見つかるかもよ」
「日本で?」
 これっぽっちも意味のない会話をくりひろげてから、そろそろいいかなとピザを受け取りに向かう。
 その間だけ傑と離れた。「ちょっと待ってて」と言い残して飛び降り、ピザを引き取り「やっほーただいま」と戻る。
 傑は地上に興味がないかのように、空を流れる雲を見ていた。
「いい天気だよね」と声をかけると「洗濯しておけばよかった」とぼやいた。
「たしかに」と同意して、もう一度手をつなぎ、今度は高専まで飛んだ。
 証拠隠滅の観点から、ピザは悟の部屋で食べることにした。テーブルの上に、ピザと傑が持ち込んだノートパソコンと、麦茶が並ぶ。
 ジャンクで遅い昼ご飯だ。
 マルゲリータを掴んで口に運ぶ。一ピース食べるだけで、手が油でべたべたになった。ウェットティッシュのボトルを引き寄せてふたを開ける。
 傑は左手でピザを持ち、右手だけでキーボードを叩いていた。検索窓にカタコトと文字が打ち込まれていく。黒い瞳が画面を凝視する中、口元とピザをつなぐようにチーズが伸びている。
「でさ、物件ってなんの話? なんか長期間の任務でもあんの」
「違うよ。高専を卒業したら、寮を出るだろ」
「そうだった」
「そうだった、って」
 すっかり忘れていた、と目を丸くすると、心底あきれられた。ピザの間から、傑のため息が漏れてくる。
「候補あんの? 見して」
「まだそんなにだよ。大学と高専の中間くらいで、菜々子と美々子も一緒に住めるようなところを探してるんだけど、なかなか難しいね。物件探しは初めてだし」
「あ、二人も連れてくんだ」
「いつまでも高専を間借りしていては悪いだろ」
 そうは言うが、たぶん高専側は困らない。寮の空き部屋も多い。傑一人が呪術界にもたらす恩恵に比べたら、寮の一部屋や二部屋どうということもないだろう。
 だが傑がここを出ていくのに、二人を置き去りにするわけもない。カチカチとマウスを操作して、いくつか候補を見せてくれた。三DLKの物件が多い。ファミリー向けだ。まあそうか。
「あ、俺はこういう感じがいいな」
 目に留まったページを指さす。シンプルなつくりだが広くてよさそうだ。キッチンも大きい。
「一人暮らしでこのサイズは広くないか?」
「え? 四人ならもうちょい広くてもいいくらいでしょ」
「え?」
 傑と目が合う。思わず見つめ合う。
 真っ黒な瞳が、純粋な疑問でひたひたになっていた。
 首を捻ると、傑も首を捻った。鏡合わせみたいだ。
「俺も、傑とミミナナと、一緒に住むけど?」
「……なぜ?」
「ダメなの?」
「いや、その発想はなかったから」
「ひでぇ」
 わざとらしく頬を膨らませ、ピザに手を伸ばす。拗ねたふりだと分かっている傑はフォローもしてくれず、同じようにピザを掴み上げた。
「悟は実家に帰るものだと思っていた。遠くないよね」
「それも考えてたけど、傑たちが部屋借りるなら俺も一緒に住む。俺たち任務で家開けがちになるだろ。そしたらミミナナ二人になる時間増えるじゃん」
「たしかにね。私はしばらく大学もあるし」
「俺も一緒に住んだら、多少その時間減んだろ」
 今は寮暮らしだから、双子が二人きりになる時間はほとんどない。硝子はほぼ常駐しているし、そうでなくても高専内には誰かしらいる。
「まあ、デメリットはないし、ありかな」
「二人は嫌がりそうだけどなー」
「悟はいまだにあまり懐かれていないよね。なにかした?」
「傑の奪い合いになるからだけど」
 真剣に答えたのだが、傑には「またバカなことを言って」と流された。この男はごくまれに鈍い。
 しかし菜々子と美々子から心底嫌われているというわけでもない。傑に比べたら全く懐かれていないも同然だが、多少は気を許されているし信頼を得ている、と思う。
「ってことで、もうちょい広い部屋にしようぜ。部屋数欲しいし、クローゼットも広い方がいいな」
「あまり広いと手入れがしきれないんじゃないか」
「あ、ハウスキーパー入れるのイヤだった?」
 術師のハウスキーパーは聞いたことがないが、いざとなれば補助監督や窓あたりにアルバイトを頼むこともできるのではないか。それか家政婦みたいな呪霊はいないのか。そこまでできたら特級分類になるか。だが傑と二人で捕まえられない呪霊もいない。
 しかしどうも違うらしい。傑はまた「その発想はなかった」という顔をしていた。非術師と関わりたくないから渋っていたわけではないのか、と思ったがすぐに「やはり嫌だな」という顔に変わったので、結果的に間違いではなかった。
「しばらく物件を見比べながら相談させてくれないか」
「いいよ。いつでも声かけて」
「部屋数も悩ましいよね。菜々子と美々子で一部屋、私と悟で一部屋でも十分かな」
「それ、俺と傑で添い寝ってこと?」
「ベッド二つ置いてもいいけど」
「それならでかいベッド一個のがよくない?」
「ああでも、二人とも一人部屋がいいっていうかな。今も二人で一部屋だし」
「どっちかって言うと、俺と傑の相部屋を阻止してきそう」
 ああだこうだと、すぐに来る未来の話を言い合う。部屋が決まれば次は家具を選びだと思うとわくわくした。その時は双子も連れて行って、好きなのを選ばせよう。全部悟が決めたとなると必ず文句を言ってくる気がする。
 ピザを食べ終わると、テーブルを回り込み傑のとなりに座った。肩を寄せ合って、ノートパソコンの画面をのぞきこむ。
 ただ暮らすだけのことで、これほど面白いと思うことがあるなど想像してもみなかった。

     

       5

  
 スティック掃除機の電源を入れ、部屋の中をうろうろうろうろ歩き回る。
 持ち手を一番伸ばして、腕もピンと伸ばしてちょうどいいくらいの長さだ。この姿を見るたび、傑は口元だけで笑う。わざわざ指摘するほどではないけれど、ちょっと面白い、というやつだ。
 背が高いことで不便を被っていると、傑のツボに入りやすい。浴衣の丈が足りないとか、ビジネスホテルのベッドからはみ出たときとか。そういう微妙に不便なときは笑っているが、鴨居に頭をぶつけたり、天井に頭をぶつけたりしたときは心配してくれる。無下限を出しっぱなしにするようになってからは、すっかりなくなってしまったけれど。
 その傑は本日、実家に帰省中だ。
 朝早くに出発していった。
「夜には帰るから」と言ったその顔は、まったく乗り気ではなさそうだった。げんなりまではいかないが、黒いまつ毛は床を向いていた。帰ってきたらかまい倒してやろう。夕飯を好きな食べ物にするのもいいかもしれない。このあたりのご機嫌とりの方法は、そっくりそのまま傑の真似だが。
 まずは掃除洗濯だ。
 傑の担当分まで済ませてしまおう。そうして空いた時間を使い、夜には双子を交えて映画を見るのもいい。二人が寝静まった後は、どこかひと気のないところに散歩に行くのもありだ。それこそ、海でも割りに行ったり。結局今まで一度も行っていない。
 リビングに掃除機をかけたあとは、傑と共用の書斎兼寝室へ。その後ベランダをさっと掃いてリビングに戻ると、菜々子と美々子が部屋から出てきていた。
 仲良く寝ぼけ眼でキッチンに立ち、トーストとココアを準備している。今日は傑が居ないから、遅起き手抜きの日らしい。髪もシュシュでひとくくりにしただけだ。毛先に寝癖が残っている。
「おはよー」と声をかけると、未だ寝ぼけているのか、素で嫌なのか判別しがたい微妙な顔で「おはよう」と返してきた。
「洗濯もの出した?」
「あとで自分で洗うからいい」
「まとめて洗っても一緒だって。早く持ってこいよ」
「いいってば」
「なら制服だけ持っといで。アイロンまでかけてやるから」
 ほらほらと手を出し続けると、渋々並んで制服を取りに行った。菜々子と美々子は二人で一部屋を使っている。別れるとなんとなく落ち着かないそうだ。さすが双子というべきか。
 その双子部屋の掃除も、いつからか自分たちでするようになった。洗濯も先ほどの通りだ。自立というより、お父さんの下着と一緒に洗わないでというやつなのでは、とか思ったりもする。ずいぶん大きくなったものだ。感慨深い。
 年ごろということなのだろう、たぶん。
 二人は今年中学に上がった。出会ったころは小学校にも上がっていなかったと思うと、時の流れの速さは恐ろしい。
「……おねがい」と差し出された二人分のセーラー服を受け取り、洗濯機を回す。
 結局、ハウスキーパーを頼まなくても、なんとか手が回る広さの部屋に落ち着いていた。狭かったら引っ越そうという話もした覚えがあるが、住み始めてからその話題を掘り起こされたことはない。
 それでも二人そろって任務が忙しく首も回らない、という状況になった時には、ハウスキーパーに来てもらっている。それが年に二度ほどだろうか。
 傑は術師をしながら、時々高専で授業を受けもつようになっていた。
 現在は臨時講師というたち位置らしい。体術指導や、術式応用の授業が月に数回。
 あまりに忙しいときは、家に帰ると傑がベッドに落ちていることがある。放り出された荷物のような格好で、着替えもせず無音で眠っているので少し怖い。
 一番ひどかった時は、寝室の床に落ちていた。寝室のドアを閉じた瞬間に気絶したような格好だった。それでも寝室に辿り着いているのですごい。双子にだらしない姿は極力見せない、という気合が感じられる。
 本当に、よくやるものだ。
 四人住まいになって、傑がどれほど双子を大事に扱っているか、より分かるようになった。
 二人が術師になった時に苦労をしないよう、今から土台を踏み固めているようだ。最近は悟まで教師にしようとしてくる始末だ。「悟って、教えるの上手いよね」などとおだててくる。生意気な子どもに囲まれて呪術を教えるなどまっぴらだ。自分で祓ったほうが早い。と言ったところ「君が言うな」と言われてしまった。
 それに現状に意外と満足していた。なんというか、思ったより楽しい。
 任務の合間に傑と分担して家事をこなし、ベランダで小さな家庭菜園を営む。そうだ、家庭菜園、プチトマト。水をあげなくては。
 呪霊を祓うことに比べたら、育てるとつくものは何でも大変だ。
 右に左に、リビングに風呂場にベランダにと移動しながら、一通り目標の家事を終える。あっという間に昼が近くなっていた。
 窓から吹き込んでくる風が、双子センスで選ばれたレースのカーテンをなびかせている。その隙間から見える空は真っ青だ。陽の位置も高い。
 甘いカフェオレでも淹れて一息つこうとキッチンに向かう。リビングでは双子が大きなテレビで映画を見ていた。見覚えのあるアクション映画だ。もう終盤に差しかかっている。
「部屋の掃除は済んだかー」
 リビングを横切りながら声をかけると「当然」と振り返りもせず返事をくれた。やったというならそれでよしだ。実際にやっているかどうかを気にするのは、傑の仕事だ。
 キッチンでコーヒーを淹れながら、双子の後頭部を眺める。キッチンとは言うが、リビングと隔てているのはカウンターのみ。料理をしながらリビングのようすを眺めることができる。全くもってファミリー向け物件だ。
 何年経っても、相変わらず双子には冷遇されている。
 厳密にはほどほどの距離感を保たれたまま、くらいなのだが、傑と比較すると温度差がありすぎる。寝室を傑と相部屋にするときには、予想通り揉めに揉めた。
 今だって傑が居れば、一緒に映画を観ようと誘っていたに違いない。五条は誘わなくても勝手に来るでしょ、とか思われているのだ。実際そうなのだが。向こうから近づいてくるのは、用事があるときくらいだ。
 しかし本日の悟には、秘策がある。
「今のうちに、傑が居たら怒られることしよーぜ!」
 テレビ画面がスタッフロールに切り替わったところで、声をかけり。菜々子と美々子がそろって振りかえった。
「やらない」
 そう短く、じとりとした瞳で言われた。再び前を向き、こちらに後頭部を向ける。
 これは想定の範囲内だ。傑のことが大好きな二人が、傑に怒られることを率先してやるわけがない。
 しかしそれが完全犯罪、傑が帰ってきた時に見つからないような犯行ならどうだ。くくく、とバレない様に喉を鳴らして笑い、冷蔵庫を開く。
「お昼、分厚いふわっふわのパンケーキにするけど、二人はやめとく?」
 必要な材料を取り出し冷蔵庫を閉める。棚からボールと泡だて器も取り出す。ソファに腰かけ後頭部を向けたままの二人の意識が、こちらに向いた気配を感じた。
 悟ほどではないが、二人も甘いものが好きだ。
 しかし傑は「あまり甘いものばかり食べるなよ」とも言ってくる。栄養を考えて、どうのこうの。昔は夜中にカップラーメンを食べていた男がよく言うものだ。
「今日は傑に止められないから、バターたっぷりで焼くし、生クリームも死ぬほど盛る。さらになんと、アイスも乗せる」
 まず、菜々子が振り向いた。
「さらになんと、昨日こっそり買い込んで隠しておいた、果物も盛りまくる。そりゃあもう、ムチャクチャに盛る」
 続けて、美々子も振り向いた。
 ここまで来たら勝ったも同然だ。ボールに入れた生地の具材を混ぜ合わせながら「あーでも、パンケーキ焼きながらフルーツの準備まではできないし、どうしよう」とわざとらしく言えば、渋々を装った双子が近づいてくる。
「なにを手伝ってほしいわけ」
「おっ、手伝ってくれんの?」
「わざとらしいんだけど」
「そこの袋に果物入ってるから、洗ってお皿に盛ってくれる? 大きいやつは切ってね。切り方わかんなかったら言って」
「わかった」
 そっけない受け答えのわりに、ビニール袋を覗き込む目は興味津々だった。のだが、突然顔をしかめた。「ウワ」と呻いた菜々子の指がレシートをつまんでいた。
 傑も、悟の買い物のレシートや領収書を見たときに、よくその顔をする。血はつながっていないけれど似るものだ。そういうのなんかいいよね、と思ったりもする。
「果物だけでこれって……」
「メロンとか大物買ってないから、安いでしょ」
 さすがにメロン一玉を三人で分けるのは大変だ。主役を奪われて、他の果物を食べる余裕もなくなってしまう。「菜々子、ムダだよ」と美々子が背をさすっていた。なんの話か。
 首を傾げながらも生地作りを続行する。その横で二人が仲良く果物の下ごしらえを進めていく。不慣れな食材に対しては、スマートフォンで調べていた。調べものができるのはいいことだけれど、聞いてくれてもいいのに、と少しばかり寂しい気持ちになる。
 そろそろ焼き始めてもいいかな、という頃合いを見計らい、三つあるコンロそれぞれにフライパンを乗せ、火をつけた。
「三つ同時に焼くつもり? 無理でしょ」
「俺を誰だと思ってるの。グッドルッキングガイ五条悟だよ」
「ウワ」
「焦がさないでよ」
「まっかせなさい」
 温めたフライパンに、バターをたっぷりと乗せて溶かす。これだけでもいい匂いが部屋に満ちる。ぐうとお腹が鳴った。双子も苺を洗ってスライスしながら、こちらに視線を送ってくる。熱したバターの匂いはどうしてこうも人を惹きつけるのか。
 生地をきっちり三等分し、フライパンに流しこむ。
 果物も準備が終わりそうだが、なぜか二人の表情が曇っていく。嫌いな物でも入っていたのかと思ったが、そうではなかった。
「これ、食べきるのムリじゃない?」と菜々子がひそひそと美々子に耳打ちしている。「無理だと思う」と美々子もひそひそ答える。「私も調子に乗って切っちゃったんだけど」と目を細めていた。悪だくみに加担した自覚が生まれたのかもしれない。
 どうやら内緒話ではなく、話に入られると面倒だから内内に確認したいだけのようだ。しかしそこで気にせず口を挟むのが、五条悟というものだ。
「余った分はおやつにしたり、夜のデザートにしたり、明日のおやつに改造したりするからダイジョーブ」
「食べきれる分だけ買いなさい、って夏油様が口酸っぱく五条を止める理由がわかった気がする」
「はは! 買い込んだ食べ物の消費に付きあわされるのは、主に傑だったからね。ま、そうなるよ」
 フライパン三つの取っ手を順番に掴み、ぽん、とパンケーキを裏返す。こんがりきれいな焼き目がついていた。
 思わず双子が口をそろえて「おお」と言った。ふふん、と視線を向けると、むっとされる。漫才の定型みたいなやりとりだ。
「あっ五条。生クリームは?」
「もうパンケーキ焼けちゃう」
「大丈夫、冷蔵庫にあるから」
「冷蔵庫にあったらダメでしょ」
 その時二人が思い浮かべていたのは、高さのない牛乳パックみたいな形の生クリームだろう。黄色っぽいパッケージのやつ。傑と仲良く泡立てた思い出のあるやつ。やりたいと手を出してすぐに疲れ、結局悟が泡立てたやつだ。
「ちょっと待ってて」
 フライパンから離れ、冷蔵庫の扉を開ける。
「さーてこちらが生クリームです」
 ご所望の紙パックを掲げるように取り出す。
「ハンドミキサーってあったっけ」と菜々子は美々子に話しかけた。「ないよ。夏油様も五条も泡立てるの早いし」と美々子は諦め「だよね」と菜々子が同意する。
 そして悟が満を持して、冷蔵庫の中からもう一つの物を取り出した。
「そしてこちらが、泡立て終わった生クリームを、絞り袋に入れたものでーす」
 ネコ型ロボットの秘密道具さがながらに掲げ、三分間クッキングのテーマ曲を口ずさみコンロの前へと戻る。
「朝、傑を送り出した後すぐ作ったんだよねー。あ、冷蔵庫にもう一個入ってるし、それでも足りなかったらさっきのパックの中身を泡立てるから、いっぱい使っていいよ」
「……いつもこいつのことさばいてる、夏油様ってやっぱりすごいなって今、心の底から思った」
「わかる。ちゃんとリアクションしてあげるし」
「いや傑も似たり寄ったりだよ。三分間クッキングごっこ先にやったの傑だし。俺は二番煎じ」
「一緒にしないで」
「ヒデー!」
 なんて言っている間にパンケーキが焼きあがった。「お皿お皿」と火を止めながら手を出すと、双子が急いでお皿を並べてくれた。
 四枚組で買った、白くて丸いお皿のうち、三枚が並ぶ。その上に、きれいな焼き色のついた、ふわふわのパンケーキを乗せていく。
 あとは各自、好きなものを好きなだけ、だ。
 お皿の空いたスペースにフルーツを置く派、上に乗せる派、先にクリームを乗せる派、各自盛りつけを進める。
 あっという間に生クリームの一本目を使い切る。二本目と一緒に、アイスの箱も取り出した。お徳用のバケツタイプだ。
「五条、生クリーム多くない?」と菜々子が横目に言う。
「某パンケーキ店より少ないよ」
「同じくらいだと思う」
「確かにこれ、夏油様がみたら怒ることだよね」
「今日は二人も共犯だからな」
「そこまでひどくない」
 双子のお皿は果物多めで、添えるように盛られた生クリームが可愛らしい感じだ。威嚇するようにアイスクリームディッシャーをカシャカシャと鳴らし、バニラアイスをすくいあげる。
 ここまでくると、あれが必要だな、と腰に手をあて首を傾げる。アイスを冷凍庫に戻し、再び冷蔵庫を開け、ボトルを二本取り出した。
「要るでしょ、ソース。チョコとベリーどっちがいい?」
「なんでも出てきて怖い」
「昨日まではなかったよね、それ」
「帰ってきて冷蔵庫開けた傑が、なんていうか賭けようぜ!」
「またこんなもの買ってきたのか悟、だと思う」
「弁明を聞こうか悟、だと思う」
「どっちも言いそう」
 せめて片方だけにしなよ、もありそうだ。あきれる顔を思い浮かべて笑いながら、パンケーキのお皿をダイニングテーブルに移動させる。
 きれいに盛りつけたお皿を写真に収める双子の横で、紅茶を淹れた。いつもなら傑に写真を送るところだが、今日は傑がいない間の犯行会なのでなしだ。
 ナイフとフォークと、生クリームをすくう用のスプーンを並べて「いただきます」と声をそろえて食べ始める。
 四人掛けテーブルの向かいに双子が座っている。食べた感想が表情から丸わかりだった。美味しいらしい。当然だけれど。
「そうだ、昼から出かけるけど、一緒に行く?」
「いかない」
「晩ご飯用の天ぷら蕎麦の材料を買いに行くのでも?」
 蕎麦、の言葉に二人がぴくりと反応した。「なんの天ぷらにするか悩んでるんだよねー」とつけ加えれば、完璧に意図を察したようだ。
「……行く」とむすりと返事があった。
 それを見て、からからと笑う。

     

       6

  
 私たちに、実の両親との思い出はほとんどない。
 顔くらいは覚えている、いやどうだろう。あれが本当に両親だったのか、今となっては自信がない。小さな頃に別れたっきり。あれくらいの頃の記憶は、大きくなるころにはほとんど消えてしまうらしい。嫌なことがあった、というくらいしか、もう覚えていない。
 だから何、って話だけれど。
 今は大好きな人と、うるさいやつに挟まれて暮らしている。そっちのほうが大事。生まれた村で育つより、ここに居たほうが何百倍も幸せだったと断言できる。あの嫌な記憶の中から連れ出してくれたことを、ずっと感謝している。
 私たちの小さなころの嫌な記憶は、幸せな思い出に塗りつぶされ消えていった。そして今の私たちがある。
 大好き。
 大好き。

「忘れ物ない?」
「ないよ」
「ハンカチは」
「昨日も確認したじゃん」
「菜々子、ベタなやり取りしたいだけだと思うよ」
「本当は、お弁当忘れてるよ、もやりたいけど、お弁当要らないんだよね」
「だって寮だし」
「ねえ」
 呪術高専の制服に着替え、鏡の前に立つ。
 私のとなりには、同じ制服を着た、双子の妹が立っている。その後方から、一緒に暮らしているもう二人のうちの、うるさいほうが覗き込んでいた。
「二人ももう高校生か。感慨深いなー。十年だよ、十年。こんなちっちゃかったのに」
 滲んでもいない涙をぬぐう仕草をしながら、五条が人差し指と親指の間にすき間を作ってみせた。
 そんなに小さくないし、と求められた定型句を返すのも癪だ。夏油様ならきっとちゃんと返してあげる。なんだかんだ言って五条に甘い、というか、一緒にふざけるのが好きらしい。なんだかずるい。けれど、嫌いじゃなかった。
「夏油様と一緒に登校したかったな」
「傑は先生だから、先に行って待ってんだよ」
「それも昨日聞いた」
 数年前から、夏油様は呪術高専で先生をしている。臨時講師として入って、二年ほど前からは担任も受け持っていた。
 毎年一年生の担任。つまり、今年は私たちの先生。「ちゃんと学校では、先生って呼ぶんだよ」と照れくさそうに笑っていた姿が思い浮かぶ。「たしかに、女生徒に様づけで呼ばせる担任ってヤベェもんな」とちゃちゃをいれる五条は余計だったけれど。
「入学式見に行くから、また後でな」
「入学式あるの? 四人しかいないのに」
「それも一人は手続きが遅れてる聞いたけど」
「もう一人は禪院家の跡取り候補らしいよ。珍しいんだよね、禪院家から高専にくんの。ま、五条家と禪院家は仲悪いけど、うまくやりなよ」
「人のお家事情に巻き込まないで」
 御三家についてはそれほど知らないけれど、五条が五条家の跡取りなことくらいは知っている。そんな奴がこんなところで、ふらふらしていていいものなのか分からない。
「まっ、気楽に行きなよ。俺も傑もいるし。入学式だって、たぶんオリエンテーションみたいなもんだろうし。でも傑そういう行事系好きだからなー。俺達のときよりそれっぽくなってるかも。胸にリボンつけてもらったりして」
 やっぱ俺もスーツとか着たほうがいいかな、と五条が慌ただしくうろつきだした。仕事用の目隠しか、プライベート用のサングラスか分からないが、それとスーツを合わせた姿を想像して眉を寄せる。
 呪術師世界で、特級術師は目立つらしい。
 というわけで、特級術師二人に育てられた私たちは、すでに悪目立ちしている可能性がある、と夏油様は言っていた。だからなにって話だけど、と権力の塊みたいな五条はあっけらかんと口にしていた。
「てか、入学式に見来なくていいから」
「オリエンテーションならなおさら」
 鞄を肩にかけ、美々子と二人玄関へ向かう。気配を察知した五条が、急いで部屋から出てきた。恐ろしいことに、すでに半分着替え終わっていた。スーツも持っていたんだ、と少し驚いた。
「傑セーンセ、って冷やかしたいから絶対行く」
「やめてあげなよ」
「残念、今年で四回目」
「うわ」
 担任持った年からやっているらしい。今年はそこに、私たちも巻き込まれる。入学式とはいったけれど、教室まで乱入してきそうだ。
 五条は玄関まで見送りに来た。
 ローファーに足を押しこみ、玄関扉を押し開く。外に出る前、最後に一度、振り向いて五条を見る。
「いってきます」
 美々子と声をそろえて言うと、五条は満面の笑みで「いってらっしゃい!」と手を振った。

  
 外の日差しは柔らかで、春の色をしていた。
 桜は散り、淡い色の葉っぱが開いている。
 ふと美々子が足を止め、振り向いた。同じように後ろを見れば、これまで暮らした家が見える。
 私たちは今日から寮に入る。
 だからしばらくここには帰ってこない。
 夏油様は担任だし、五条はあの調子なのですぐ高専に来るだろう。ずっと一緒に暮らしていた二人と会わなくなるわけでもないのに、少しだけ寂しかった。
 それに、小さい頃数年間暮していた、あの高専の寮に再び入るというのも、なんだか変な感じだ。
「卒業したら、また帰ってきていいのかな」
「聞いたら、いいよって言ってくれるでしょ」
「うん。だから、ちゃんと考えないと」
 夏油様が私たちのために、これまでどれだけのことをしてくれたか、分かっているつもりだ。今高専で先生として待っていてくれるのも、その一つ。
 大好きだから、そばに居たい。
 でも一生そのままなのかについては、きちんと考えなくちゃいけない。
「まだ、四年あるし」
「そうだよね」
 術師として生きていくのか、あの家に戻るのか、それとも全く別の道を選ぶのか。夏油様が私たちに注いでくれた時間の分、私たちも返していきたい。あと、ちょっとくらい、五条にも。
 春の路を、私たちは頭を悩ませながら静かに進んだ。
 五条に送り出されて、夏油様の居る東京都立呪術高等専門学校へと向かう。

 結果だけ言えば、私たちが再びあの家に戻ることはなかった。