硝歌(webオンリー:酒と煙草といい女展示)
「じゃーん、ケーキ持ってきたよ」
一緒に食べない?
そう、部屋の前に立った歌姫が言った。
その事実が遅れて脳みそに届く。ドアノブを握りしめたまま、数秒ぼんやりとして、それから「あれ、歌姫先輩」と口にした。
「久しぶり、ってほどでもないけど、元気にしてた? それより今大丈夫だった? こんな時間に急に来ちゃったけど」
はにかんでいた歌姫の顔が、言葉を重ねる度に慌ただしく色を変えていく。手に持った白くて四角い、きっとケーキの入った箱が小さく揺れた。
そうだ、ケーキ、歌姫先輩。
こんな時間の響きに、壁にかけた時計に目をやる。二十一時をすこし過ぎていた。確かに「こんな時間」と言ってもいい頃だ。息をふっとこぼすように笑ってから、ドアを押し開き、歌姫が入れる隙間を空ける。
「暇してましたよ。どうぞ入ってください。そのケーキ、一緒に食べていってくれるんですよね?」
「もちろん! といっても、お邪魔する身だけどね」
「私はケーキをもらう身ですね」
「ふふ、そうだね」
軽やかに笑った歌姫を通してから、ドアを閉める。
すでに卒業している歌姫だが、高専にいること自体はそこまで珍しくもない。任務のこともあって、たまに会う。とはいえ、彼女の在学中に比べたら、会う頻度はぐっと下がっていた。
けれどドアの向こうで笑う姿が、同じ寮で暮らしていたころと何も変わっていなかったものだから、思わず一瞬、時が戻ったかのような錯覚をおこしていた。
私はまだ一年で、歌姫は先輩で、同級生は三人いる。
私の同級生に同性はいない。だからか歌姫はよく気にかけてくれた。「なにかあったらすぐ言うのよ」なんて、何回言われたことか。任務終わりに様子を見に来てくれることも、よくあった。それこそ、先ほどのように。
けれど今日の歌姫は、知らないワンピースを着ていた。最後に会ってから何日、何週間、何か月だったか。一緒に買い物に出かけることも稀になった。知らない服の一着や二着、増えているのも当然なのに、不思議な感じがする。
時間の流れを感じる、とか言えばいいのだろうか。三人だった同級生も、二人減ってしまったところだ。様々移り変わっていく。
「紅茶と紅茶、どっちがいいですか」
テーブルにケーキの箱を置く歌姫の背中に声をかける。
ワンピースの裾を揺らしながら、こちらを振り向いた。知らない服だけれど、髪を結ぶリボンは変わらない。いつかプレゼントしたら、使ってくれるだろうか。きっと使ってくれる。そういう人だから。
「紅茶がいいな」
「分かりました。ちょっと探しますね」
「普段あんまり飲んでないのね」
「コーヒーのほうが多いですね」
眠気覚ましにと飲むが、大して効く気もしていない。眠いものは眠かった。それでも何となく飲んでいる。
そんなコーヒーに大したこだわりはないが、確か紅茶は貰い物の、そこそこ良いやつがあったはずだ。一人じゃこんなに飲めないから、と五条がこの前持ってきた。
どこにしまったんだったかなと探している間に、歌姫がやかんを引っ張りだしてお湯を沸かしてくれていた。「置き場所全然変わってないね」と笑うので「模様替えなんて滅多にしないですよ」と答える。
高そうなパッケージを見つけ出し、中からティーパックを二つ取り出す。お湯を注いでいないのに、もういい匂いがした。これをあいつらは二人で飲んでいたのかと思うと、なんとなく面白い。
マグカップを二つ並べて、私たちも二人並んで、お湯が沸くのを待つ。
「歌姫先輩、近くに来ていたなら連絡してくれたらよかったのに。そうしたら迎えに行きましたよ」
「今日のはサプライズだから内緒だったの。言ったら驚かせられないでしょ……っていっても、硝子あんまり驚いてなかったね」
「そんなことないですよ。びっくりしてました」
「本当に?」
くすくすと笑う横顔は、あいかわらず表情豊かで眩しい。ほんとうですよ、と後輩らしく愛嬌を含ませた返事をする。
「でも、もし私が寮にいなかったどうしたんですか?」
「そこは大丈夫。今日の硝子は任務がないって、夜蛾先生にきいていたから」
ブイサインを向けられながら、なんだか少しズルいな、なんて思った。私じゃなくて夜蛾先生に連絡をするんだ、とか。それもサプライズと天秤にかけると、どちらを取るか悩ましいところでもあるけれど。
「そうだ、はちみつある?」
「紅茶に淹れるんですか? たしか冷蔵庫にあったような」
「硝子、自分の部屋のこと把握しきれないくらい忙しいの?」
「いえ、五条が最近色々持ってくるせいですね。一人じゃ余るからって」
冷蔵庫を開けて覗き込む。瓶に入った未開封のはちみつが見つかった。
「あっ!」という歌姫の声と共に、両肩に重みがかかった。どうしたんですか、と横を向いたとき、想像以上にすぐそばに歌姫の顔があって、思わず息をのんだ。
彼女の目を見開いて、冷蔵庫の中を覗き込んでいた。
「お酒入ってる!」
「まあ……ちょっとくらいは」
「ということは、タバコもまだ吸ってるんでしょー。そろそろ禁煙したら? 硝子は長生きしてよね」
呪術師がのんびり肺がんになるまで待てるかどうかは怪しいところだが、そろそろ考えてもいいかもしれない。すんすんと歌姫に匂いをかがれていることだし。
さすがに恥ずかしくなって顔をそむける。
「うーん、今はタバコのにおいしないわね」
「さっきお風呂に入ったところなので」
「そこは禁煙したとか嘘を吐いてもいいのに。あっ、寝るところだった? ごめん、やっぱり先に連絡しておけばよかった」
「それは全く問題ないんですが、そういえば歌姫先輩にしては遅い時間ですよね。任務長引きました?」
「ちょっとね」
あいまいな言い方をしながら、歌姫がコンロの火を止めた。気づけばお湯が沸いていた。
マグカップ二つに分けて注いで蒸らしたあと、ティーパックをぽいとシンクに放る。ポコッと音がした。
近頃少し、任務が増えた。夏油が抜けた分の穴が開いたから。だから歌姫は言葉を濁した。
ふーっとマグカップに息を吹きかけて一口飲みこむ。となりで歌姫がはちみつの瓶を開け、スプーンでひとすくいし、紅茶に溶かしていた。
「硝子は?」
「私はいいです。そのまま瓶ごと持ち帰ってもらってもいいくらいですよ」
「使わないの?」
「未開封で放置していたくらいには」
「なら、貰って帰ろうかな」
スプーンに残ったはちみつを口に含みながら「うわ、美味しい。なんか腹立つ」と率直な感想を口にしていたので笑ってしまう。きっと、五条が持ってきた、のところにムカついているのだろう。
テーブルに移動して、満を持してケーキの箱を空ける。
白い箱の中には、種類の違う四つのケーキが入っていた。
「この時間にケーキ二つって、罪深いですね」
「いいでしょ、たまにはね。硝子から選んでいいよ」
お言葉に甘えて箱の中を覗き込み、少し考えてから、歌姫の好きなケーキを残して二つ選んだ。一緒にケーキを食べることはこれまでにもあったので、少しくらいは好みも分かる。
「それでいいの?」と疑ってくるので「これが気になったので」と返す。どれも美味しそうなことに変わりはない。それよりも、嬉しそうに美味しそうに食べる歌姫を眺めるほうが好きだった。
付属のチープなプラスチックフォークの袋を雑にやぶく。部屋にはきちんとフォークもあるけれど、せっかくついているのだし使おうか、となった。洗い物も減って、楽でいい。
レモンの乗せられたチーズケーキから、フォークを差し込む。歌姫は苺のショートケーキを口に運んでいた。ぱくっと口に入れ、柔らかに目を細める姿を見ているだけで、嬉しくなる気がした。チーズケーキもさっぱりとしていて美味しかった。
呪力を練るためには、どれほどのカロリーを消費するのだろう。
薄っぺらなフォークから視線をあげ、歌姫を見る。美味しそうにケーキを食べる先輩。私の先輩。
今日はきっと、私のようすを見に来たのだろう。
高専に寄ったついでに、顔を見せてくれることは多い。けれどこんなに遅くなってまで、ケーキを携えてやってきたのは初めて。それでもなんともないように笑って、私の向かいに座っている。
部屋に置いてあるクッションは歌姫に貰ったものだった。この部屋に遊びに来た時の、彼女の定位置。桜に似た淡い色をしたかふかのクッション。そこに座って、いつかの、いつものように、目の前に居てくれる。
私がこうして向かい合っている間、ずっと横に座っていた相手がいなくなった奴が、その辺にいる。どうだったろう。今日は任務で遠くに行っていたかもしれない。
「私はなんともないですよ」
そう歌姫に声をかけると、はっとしたように顔を上げた。フォークで切り分けた、一口分のケーキをそのままに手を止めた。食べ終えてから言えばよかったかもしれない。
「本当に?」
同じ言葉を少し前に向けられたが、まったく違う響きをしていた。疑うみたいな、心配をするみたいな。
「むりしてない?」
「ぜーんぜん」
チーズケーキの最後のひとかけを口に運ぶ。「ここのケーキ美味しいですね」と笑いかけるも、歌姫は難しい表情を浮かべていた。
そんな顔をしなくたっていいのに。貴女が気に病むことなんて、これっぽっちも何一つもないのに。
夏油の話を聞いたのだろう。
呪詛師になることを選んだ私の同級生。歌姫からしたら、全く可愛くない後輩。憎たらしいくらいあったのではと思う。
それでも心を痛める、呪術師の中ではとても優しい人だった。私はときおり、この人のためだけに頑張ってもいいとしたら、いったいどこまで遠くへ行けてしまうだろうか、と考えることがある。そうもいかないのが現実だが。
浮かない顔をした歌姫の向かいで、苦笑する。それから二つ目のケーキに手をかけた。ぺらぺらのフィルムをはがして、空っぽの箱の中に置く。
「あいつらが選んだことですよ」
「……そうだけど」
「でもこのところの五条は、少し静かで珍しい感じになってますよ。せっかくだし見に行きます?」
「硝子!」
「あっ、今日居ないかもしれないんでした」
「見に行かないわよ」
もう、とため息を吐いてから、先ほど切り分けていたケーキを口に運んだ。そのあとパクパクと食べ進め、私と同じく二つ目に突入する。ペースを合わせようとしてくれたのかもしれない。少し待ってから、ミルクレープに切れ目を入れた。
夏油の穴の分だけ忙しいのは、五条も変わらない。
二人してバカをしていた、悪童な印象が強いので、押し黙って黙々と祓除をこなす姿は不気味ですらあった。慰めようなど元からこれっぽっちも思っていないが、思ったところで声のかけようもない。
羽化なんて言葉が頭を過る。どろどろに溶けて、変わることを強いられる、残された同級生。
「先輩が気に病む必要なんてないんですよ。あいつらがそれぞれ選んだことです」
「そうなんだけど」
「私が巻き込まれて落ち込んでいないか、心配して来てくれたんですよね」
「そうよ。だって同級生じゃない」
たった三人の。
そう言われても、呪術高専としては珍しくもない人数だ。一つ下の七海なんて、一人きりになってしまった。私たちはまだ二人いる。それも、居なくなった一人も生きている。
それでも、それだけだ。私たちはお友だちではない。ただひたすらお互いに、呪術師というだけ。
「歌姫先輩があいつらのこと心配してやる必要なんてないですけど、でも先輩のそういうところ、私好きですよ」
まばゆい私の先輩。
紅茶を飲む合間に笑いかけると、歌姫はぽかっと口を開けて、それからさっと頬を赤らめた。
「もー急にそういうこと言う」
「照れる先輩も可愛いですね」
「なんなの急に!」
頬を両手で押さえる姿もかわいかった。かと思えば頬を膨らませてもくもくとケーキを口に運んでいく。どちらにしても仕草は変わらずかわいいのだけれど。
「そうだ先輩、今日は泊まりですか?」
「そのつもり。遅くなっちゃったし、夜蛾先生がゲスト用の部屋の鍵を貸してくれたしね」
「ここで一緒に寝たらいいじゃないですか」
そんなところに行かなくても、この部屋に泊まったらいいじゃないですか。
そう言うと、歌姫は小さく肩を揺らした。
「ベッドが狭くなっちゃうよ」
「へいきですよ。私たち細身ですし」
「夜中にケーキ二個も食べちゃったけどね」
「普通の人より動いているから、たぶん関係ないですよ」
お互い腹筋も割れているのだし。
ささいなやり取りに、ほっと息を吐く。私たちはここで向かい合っている。歌姫が向かいでケーキの最後のひとかけを口に運んでいた。
「まだ歌姫先輩と話したいですし。ダメですか」
そう後輩らしくお願いをすると、先輩然とした「しょうがないなあ」の笑みが返ってきた。
「明日の朝ごはんも、一緒に食べましょう」
「食堂私の分まで用意してくれてるかな?」
「そこは夜蛾先生が手配してくれていると思いますよ。鍵と一緒に」
「そうよね。なかったらコンビニになにか買いに行こうかな」
「なら食パンを買って、フレンチトーストにしましょう」
「そこにさっきのはちみつをかける」
そう言ってお互い笑って、ゆっくりと立ち上がった。
皿を片づけて、歌姫はシャワーを浴びに行く。私は予備の部屋着とタオルを用意して、ベッドをなんとなく整える。
髪を乾かす歌姫と記憶にも残らないような話をたくさんして、それから一緒のベッドにもぐりこんだ。
夏も終わる。秋がくる。
横になったあとも暗闇の中でぽつぽつと話をした。それも次第に感覚が空いて、いつしか静まり返る。肩に触れる体温が温かだった。
「せんぱい?」
小さく呼びかけるも返事はない。寝てしまったのだろう。そろりと体を動かし、歌姫の姿に向け、せんぱい、ともう一度呼びかける。
「歌姫先輩は、そのままでいてくださいね」
当然返事はなく、穏やかに繰り返される寝息を耳に目を閉じる。
たったこれだけの願いをかなえることが、どれほど難しいものであるか、私はすでに知っていた。