甘い匂いは初めからしていた

(五夏)

 
 
 
 
 

「傑ー、オメガバースごっこしようぜー」
 ノックもなしに扉をガチャリと押し開けば、傑は床にあぐらをかいて爪を切っていた。髪は下ろしている。もう風呂に入った後らしい。癖のある毛先が、丸めた背中の形に添って流れを作っていた。
 上下スウェット姿で、いかにも後は寝るだけですという格好だ。普段かっちり着込んでしっかり髪を結っているから、未だに一瞬別人のように感じる。けれどこういう姿を見られることを、面白いな、なんて思いもする。寮生活でなければまず見られなかっただろう。
 唐突に部屋に乗り込まれた傑は、怪訝そうに悟を一睨みしてから、背中をすっと伸ばした。それから咳払いでもしそうな程、真面目くさった顔を作ってみせた。
「いいかい悟、私達の時代にはまだオメガバースものは生まれていないんだ」
「メタいこと言うなよなー」
「固いこと言うなみたいに言うな」
「言うな言うな、言うなよ」
「ああもうムカつくな」
 第一声が帰れではなかったので入って良いのだろうと結論づけ、扉を閉めたあとで傑のとなりに座り込む。傑は呆れたように首を振ると、また背中を丸めて爪を切り始めた。
「それで、具体的には何がしたいの?」
「おっ乗ってくれんの」
「今日は見たい番組もないしね」
 要するに暇って事ね、良い事じゃん。とベッドに背を預け、床に足を投げ出す。かかとがフローリングを叩いた。
「私はあまりそれについて詳しくないのだけれど、つまりあれか、発情セックスがしたいってことかな」
「直球すぎね?」
「そんなに溜まっているとは思わなかったな。最近忙しかったわけでもないし、それに悟わりと淡泊だろ」
「いやそもそも発情セックスがしたいわけじゃないし」
「違うんだ」
 傑の驚きを表すように、爪切りがパチッと軽やかな音を立てた。
 発情セックスに興味があるかどうかでいくと、あまりなかった。具体的にどういう事をすべきか想像をするのも難しい。大体ああいう感じだろうな、と推測くらいはできるが、それを正気のまま行う場合、何を満たせばそれと言えるのかがさっぱり分からない。傑とのセックスがまんねりとかいう訳でもないし。
 じゃあなんだ、と促すかのようにまた爪切りが鳴る。
「そうだ、傑が巣作りすればいんじゃね?」
「悟の服でか? それを見て君は楽しいのか?」
「え、どうだろ?」
「えぇ……」
 自室に帰ったらベッドで傑が丸くなっていた場合、ちょっとドキドキするかも半分、何事かと心配するの半分だろう。人のクローゼットを漁ってその中身に埋もれる傑なんて絶対妙だから、冷や汗すら出そうだ。悲鳴の一つでもあげながら、傑を発掘することになりかねない。
 部屋を散らかすなと怒ってくる側のやつが、部屋を散らかして丸まっていたらそりゃまず心配をする。そういう意味では全部ドキドキに分類されるかもしれない。
 いやオメガバースごっこなのだから、巣作りは当然のものとして考えないといけないところか。
 人の部屋に忍び込んで、普段なら絶対やらないようなことをして、丸くなっている傑。ときめくかも、ときめいてきたかも、そんな気がしてきたかも。
 現実の傑は手の爪を切り終えて、足の爪に手を伸ばすところだった。
「でも悟の服はどれも桁がおかしいから気が乗らないな」
「桁?」
「金額」
「ああ」
 そういえば傑は人の服の値段を知る度「部屋着にする金額じゃない」だのなんだの言っているかもしれない。
 ハッと思いつき、横目に傑を指さす。
「ならピタリ賞をつけんのはどう」
「総額百万になるように巣を作るってことか?」
「えっ、そんなん巣になんないでしょ」
 巣ってもっと服をこんもり集めるんじゃないの。と聞き返すと、げんなりとした表情を向けられた。眉尻を下げ、しかし口元はゆがませている。嫌そうな顔をするのが実に上手いなと感心して、その口の端をつつこうとしたらさっと避けられた。
「総額一千万の巣とか嫌だろ」
「そう? そこまで盛ったらさすがに寝心地はいいと思うけど」
「まあでも家だと思えばそんなもの、になるのか?」
「そんならいっそ億ション建てようぜ!」
「巣をマンションにするなよ」
 ところでマンションは巣に入るのか。改めて考えると難しい。家とは巣であると仮定した場合そうとも言えるが、第一オメガバースにおける巣とは、家というより愛の巣的なものなのではないか。とすると、それを金で人に貸すというのも妙なことだ。
 話が逸れた。
「いっそどれだけ高額な巣を作れるかの方が面白いかもな」
「ベッドの上だけ使って?」
「そうそう」
 まずルール確認をしてくるところが面白いというか、呪術師らしくなったというか。このごっこ遊び自体に面白さを見いだしている気配はさっぱりないくせに、こうしてちゃんと会話で遊んでくれるところが好きだ。
 さてベッドの上はどこまでが適応範囲なのか、天井は含まれるのか。どちらにせよ天井に届くまでに崩れるよな、と考えていると、急に横から抱きつかれた。
 傑の鍛えられた両腕に、しっかりと抱きしめられている。
 胸元にすり寄った傑の顔が、こちらをじっと見上げている。
 切れ長の目の中にある瞳はまん丸で黒い。どうにもドキドキしてきた。前にこの角度で見上げられたのが、キレられてタックルを食らったときだったからだ。あれはむちゃくちゃに痛かった。あばら絶対折れたって硝子に泣きついたら湿布を貼られた。冷たかった。
「え、な、なに」
 タックルではないにしても、脈絡なく抱きつかれることも、こうして上目に見られることも、滅多にないので理由が分からない。そういうムードだった気もしない。マンションは巣に含まれるのか、とか話していたはずだ。
 傑の体はじんわり温かかった。風呂から出てそう経っていないからだろうか。
 抱きしめてくる腕に、急に力が込められたかと思うと、体がふわっと浮いた。「なに!」という戸惑いの声を無視して、軽く放り投げられ、ベッドに上げられる。無残にも肩から着地し「ぐえ」と呻くと同時に、備品のベッドも唸るような音を立てた。
「悟の懸賞金って確か億だろ」
「……え、俺って巣の材料の方なの」
「これでもう億達成じゃないか。チョロいね」
「俺が、億ション」
 ごろっと体を転がし、うつ伏せから上半身を持ち上げる。傑が手を伸ばして、ぼさぼさになったらしい髪を整えてくれた。喉を鳴らして笑っているので、成功したいたずらにご満悦らしい。
「いやなんか違う気がする」
 俺は巣に招かれる側で、材料にされる側ではないはずだ。と抗議したが無視された。髪に触れていた手を引っ込めると、傑はベッドに背を向けた格好に戻り、爪切りを再開した。ざりざりという音がする。切り終わってヤスリがけに移行したようだ。
「そろそろごっこ遊びは満足したかい?」
「いやまだ何もしてなくね?」
「巣も出来たし上出来じゃないか」
「俺をベッドに投げただけじゃん!」
 傑の肩を殴ると「おい」と文句を言われた。
 ううんと唸って、傑の髪に手を伸ばす。毛束をひとつまみし手繰りよせ、枝毛を探して遊ぶ。あまりない。一本だけ掴んで引っ張ると裏拳で殴られた。
「あとなにがあったっけ」
「オメガバースに?」
「そ」
「あとは……社会問題かな」
「傑と二人で社会問題を再現すんのはむずくね?」
 髪から手を離し、ベッドを転がって考える。壁にぶつかったところでふと閃いて、反対向きに転がって傑のそばに戻った。
 丸まった背中に近づいて、黒い髪の中に手を差し込む。「なに」と問いかける声を無視して、肩を撫でるように髪をすくい上げ、反対側の肩にかけるように流す。よっこらせと体を起こし、あらわになった首筋に向け、あ、と口を開く。
 噛もうとしたはずが空振りして、歯と歯がガチンと音を立てた。
 目の前にあったはずのうなじが消えている。持ち主の傑は驚きの瞬発力を発揮し、部屋の真ん中で首の後ろを手で押さえて立っていた。
「噛もうとしただろ!」
「あーあ、いつもの丸出しだったらいけたのになー」
 そうしたら髪を避けなくてよくて、気づかれることもたぶんなかったはずだ。
 ベッドの縁に腰掛け、そのまま立ち上がる。傑が身構えてじりじり距離を離すので、その分だけ近づく。あるところで大きく踏み込み、傑の襟を掴もうと狙うが、軽くいなされ避けられた。
 どうしても傑のうなじを噛みたいのか、と言われるとそんなことはないのだが、こうして部屋の真ん中で二人ぐるぐると回るように攻防を繰り広げていると、次第に意地になってくる。
 勝ち負けだ。勝負するなら勝ちたい。この場合の勝ちは、傑のうなじを噛むだ。しかしこの狭い部屋の中で背後を取るのはなかなか難しい。
 しばらく小競り合いを続けたあと、お互いの襟と手首をつかみ合ったところで膠着状態に陥った。手が出せないなら足しかないでしょ、と振り上げたつま先がゴミ箱を蹴っ飛ばしてしまい、「おい!」と怒った傑に頭突きを食らわせられ、「イッテェ!」と両手を離してしまったことで終戦になった。
 紙くずを拾ってゴミ箱を戻す傑の横で、額を押さえてうずくまる。「たんこぶできた」と訴えるも「ないね」と見もせず棄却される。
 深く息を吐き出し後頭部をかき、渋々立ち上がる。傑はすっかり片付けを終え、爪切りまで元に戻していた。見えた背中に手を伸ばし、黒い髪を指の先で払う。初めて会った頃に比べるとずいぶん長くなった。その分毛先に癖が出てきていて、なんとなく面白い。
 もう噛む気がないとバレているのか、傑はまるで逃げなかった。
「ぶっちゃけ、うなじに歯形残ってたら怖いよな」
「呪いっぽいね」
「それな」
 歯形が、それもうなじに現れる呪いなんて、間違いなくろくなものではない。途端に興味がなくなってきて、二人して一番初めのポジションに戻った。ベッドに背中を預け、足を投げ出してぼんやりの位置だ。傑が爪を切り終わっている点だけ、最初と違う。
「今度は満足した?」
「んー」
 結局それっぽいことはしていないのだけれどと仰け反って天井を見ていると、ふと気づくことがあった。
 すん、と息を吸い込んで、それから傑の首筋に鼻を近づける。
「傑なんか甘い匂いする」
 じっと上目に見つめると、傑は愉快そうに笑っていた。
「ふふ、やっとその話?」
 良い匂いがする。美味しそうな、甘い匂いだ。
 そのとき「チン」とキッチンから音が聞こえた。
「実はパウンドケーキを焼いたんだ」
「え、めずらし」
「食べるかい?」
「食う!」
 先に立ち上がった傑の背に飛びついて、一緒にオーブンの元に向かう。良い匂いは傑からしていた訳ではないが、改めて嗅ぐと砂糖と洋酒の匂いがしたし「おい嗅ぐな」と肘で押しのけられた。
 オーブンからはふかふかに焼けたパウンドケーキが出てきた。四角い型から生地がはみ出して、山のてっぺんが割れている。渾身の出来栄えに満足げに笑う傑のそばで、なんでこいつはパウンドケーキの型なんて持っているのだろうと首をかしげる。どこからか借りてきたのだろうか。それともパウンドケーキ型くらいみんな盛っているものなのか。
「つかこんな時間に作ったの?」
 時計はかなり夜更けを示している。なにせ風呂もすっかり済んだ時間だ。そうでなくても、傑がお菓子を焼いているところはこれまで見たことがなかった。もっと主食を作っている印象しかない。夜な夜なチャーハンを作っているところに出くわし、ご相伴にあずかった事ならある。
 傑は型からパウンドケーキを外しながら、わざとらしいほど穏やかな笑みを浮かべていた。菩薩、と思い浮かんで、ふと不吉な気配を覚えた。
「前にね、ムシャクシャしたときはお菓子を作ると良いって聞いたことがあったんだ。だから試しにやってみたんだけど、なかなか良いね。小麦粉とかの分量を量っていると無心になれる」
「……、げっ!」
 楽しげに話していた声が徐々に低く這うように落ちていく中、傑の話に思い当たるものがあった。腹が立ったらお菓子を作ると良いの話ではなく、傑の腹が立つような出来事の方にだ。
 とっさにその場から駆け出すも、一瞬早く首に腕を回され捕まえられてしまった。逃げようとした勢いが首に跳ね返ってきて「ぐえ」という本日二度目のうめき声が漏れた。
「人のカップ麺勝手に食べただろ!」
「そんなに怒るなよ!」
 たかがカップ麺一個じゃん、とわめくと改めて傑に締め上げられた。怒気が背中から腕から、触れたところからひしひしと伝わってくる。そういえば、蓋に期間限定とか書いてあったかもしれない。ギリギリと締め上げられ、無下限を出すことも忘れてうっすら意識がなくなりかけた。
「ギブギブ!」
 傑の腕を叩いて敗北を宣言すると「同じものを探してくる」という約束をさせられてしまった。見つからなかったらどうなるのだろうか。縛りを破ったペナルティの前に、傑本人に何かしらの技をかけられそうだ。
 正座で反省させられてから、大雑把に切り分けたパウンドケーキを仲良く食べた。
 ただあり得ないくらい洋酒が入っていたため、その後の記憶は朝までない。