いつか絶対泣かせてやる2022

(爆轟/最初の話のリマスター)
 

 
 
 

 いつか絶対泣かせてやるからな、と言われたことを覚えている。

   1

 目の前のテーブルに、バサリとファイルが落ちてきた。
 夕食を終え風呂にも入り、ソファでんびりとお茶を飲んでいる時のことだ。
 厚み二センチほどの、紺色のプラスチックファイル。こんなもの家にあったかと顔を上げたその奥に、爆豪の足が見えた。そこで赤い瞳が轟を見下ろしていた。
 何も落とさなくてもいいだろと思うが、むすりとした表情と目が合えば、その言葉も引っ込んだ。楽しい話ではないようだと予想して、ファイルを掴み上げる。
「新しい仕事か?」
「ちげぇわ」
 じゃあ何だと、膝の上に乗せ表紙を開く。
 ポケットファイルだった。一ポケットに一枚、料理のレシピが入れられている。ぱらぱらとめくれば次々にレシピが出てくる。それ以外何も入っていなかった。
 軽く目で追っているうちに、爆豪は何も言わず自室に消えていった。それでこれはなんなのかと思っている間に、着替えを持って出てくる。これから風呂に入るようだ。
 いつもは入れ替わりで入るのだが、今日は「風呂から上がったぞ」と声を掛けても「おー」の一言しかなかった。
 このファイルを準備していて、風呂の時間が遅れたようだ。野菜も肉も魚も食べさせようとしてくる、懇切丁寧なレシピ集を眺めて思う。
「作れるようになってもらうからな」
 料理、と爆豪の指先が、すれ違いざまにファイルを示す。
「俺だって、料理くらい作れるぞ」
「テメーは偏り過ぎてんだよ。料理作れっつーとまず蕎麦茹でるか、卵焼くだろうが」
 舐められたものだなとムッとして「野菜も炒められるし、鮭も焼ける」と返せば、鼻で笑われた。
「あったものを焼いてる程度の奴が何言ってンだ」
 それで飯になるから良いだろうが、と眉間にしわを寄せるが、ここで言い返しては言い合いが続くだけだ。経験上分かる。
 既に付き合って七年、一緒に住んで四年になる。
 料理ができるかできないかは、言い争いの種にするほど重要な事柄でもない。食うに困っていない、というアピールに切替え「自分で作るより爆豪の飯食う方が美味い」と訴えると「当たり前だろうが」何言ってんだ、呆れる勢いの言葉が返ってきた。
 一緒に住んでこの方、食事に関しては爆豪に甘えてばかりだ。
 作ることが苦にならないタイプらしいことと、轟の食への頓着のなさとが相まって、キッチンは爆豪の独壇場と化している。迂闊に調理器具を触ることすら恐ろしい。使いかたの分からない器具もある。最早聖域だ。気兼ねなく触れるのは、食器と少しの調味料くらいなものだ。
 爆豪もそれを良しとしていた。料理を食べさせることも、割と好きらしい。自分の都合のいいようにカスタマイズして、必要とあれば機器を買い足していた。
 それがここに来て、作れという。
 その上この分厚いレシピ集だ。
 爆豪は変わらず、不機嫌そうにむすりとしている。しばし考えて、ハッと気づき目を見開く。
「俺、もしかして追い出されるのか?」
「アホかテメェは」
 舐めたこと言ってんじゃねェ、と重たいデコピンが飛んで来た。
 容赦のない打撃が頭蓋に響き、額を押さえて背を丸める。「ただの冗談じゃねえか」涙目に睨めば「んな冗談言うようになるとは進歩だな」とまた鼻で笑われた。
 額をさすりながらレシピ集に目を落とす。どれもレシピサイトに掲載されているページを印刷した物だったが、ところどころ手が加えられていた。
 追い出されるというのは冗談にしても、一緒に暮らして四年、こういうものを渡されたのは初めてだった。
 帰宅時間が合わず一緒に食事が取れないことも多いが、見越したように冷蔵庫の中には作り置きのおかずがある。食卓を囲むことが難しいと分かった時点で、あれを食えこれを食えと連絡が来る。それすらままならないほど忙しい時は、外で食えという指令がくだる。
 爆豪が数日家を空けることもあったが、その時は多めにおかずを作り置いてくれる。最早食事管理の域だ。
 だからこそ、これを渡される理由に思い当たれない。
「じゃあこれ、なんなんだ」
 今更、なんのために必要になったのか。
 一人で料理を受け持つことが負担になってきたのか。だがたびたび分業を提案しては「テメェに任す心労の方がでかい」と断られている。
 ではなにか。今更轟の料理の腕前を案じたのか。なんのために。
 答えはこのレシピ集を用意した本人からもたらされた。風呂場に向かうべく一歩を踏み出した赤い瞳が、轟を見る。
「しばらく仕事で戻れねえし、連絡もできねえ」
「しばらくって、作り置きで持たないくらいなのか」
「五日後から、三か月」
 淡々と予想外の長期間を告げると、爆豪の背中は風呂場に消えて行った。ドアのしまる音を聞きながら、言葉を反芻する。聞き間違いを疑うほど、長い期間だった。
 三か月、およそ九十日。
 確かにそれは、作り置きでは凌げない。
 
 
 

   *
 
 
 

 レシピ集を投げつけられてからの五日間、爆豪は仕事を休んでいた。長期出張前の準備期間らしい。
 一度「もう少し早めに知りたかった」とぼやいたところ「急だったんだよ」と「それ以上は説明できねェ」と言われては追求しようがない。
 プロヒーローという職業柄、箝口令には慣れている。同じ仕事に参加していなければ、何をしているか知りようがないことなど日常茶飯事だ。
 それも全く言えないとなれば、組織規模の案件で、まだ調査段階だろうと予想できる。三か月という期間からは、事の重大さも垣間見えた。
 どこかピリピリした様子の爆豪を、頑張れよと送り出すことが、今してやれるせめてものことだ。
 そうだったのなら良かった、とつい思ってしまう。
 いよいよ明日から、爆豪はこの家を空ける。
 ダイニングテーブルに並べた、豚バラと白菜のミルフィーユを眺めながら、深い溜息がもれた。肩が凝った、目がしぱしぱする。妙に疲れた。
 毎晩毎晩「雑」だの「軽量スプーンって知ってるか」だの「なんのためにレシピ開いとんだ」だの「それはこの引き出しン中だわ」だのと、横から小言を言われながらキッチンに立つのも、今日で終わりだ。
 五日間、毎晩こうだった。三か月会えなくなるのだから、少しでも一緒に居る時間を長くしようという気持ちも、最初はあった。家で待つ爆豪の元に急ぐべく、早めに仕事を切り上げ真直ぐ帰路に着いていたのだが、キッチンに立てばこの仕打ちだ。
 ある日はスーパーに連れていかれ食材を選ぶコツを叩きこまれ、今日はこれと示されたレシピと睨みあいながらキッチンに立ち、手出しを堪えた結果、ピリピリする爆豪に圧を掛けられる。
 付き合って七年の実績と、惚れた弱みなどがなければ、とっくに大乱闘になっていてもおかしくなかった。
 お互い手が出るのが早いため、一度喧嘩になると、色々面倒なことになる。ものが壊れるだとか、打撲がふえるだとか。
 殴り合いするほどのことか、という自制心が働くようになったのは、大人になったということだろう。
「まあまあだな」
 一足先に料理に箸を付けた爆豪が言った。
「もう少し褒めてくれたっていいだろ」
「夜になる度に何食わされるか怖くなるほどじゃなくなったな」
「……それ、褒めてねェよ」
 爆豪の料理と比べられては仕方がないが、とあきらめて箸を握る。具材を切って鍋に詰め、味付けをして煮ただけではあるが、あるものを焼いただけ、と言われた人間からすれば進歩だろう。調味料も複数入れた。
 白菜と豚バラをつまんで口に運ぶ。少し味が薄かった。味見もしたのになと首をかしげる。確かにまあまあだ。
「帰ったらテストすっからな。美味い飯食わせろよ」
「爆豪の言う美味いは、さすがにハードル高えだろ」
「三か月もありゃ、慣れンだろ」
 三か月の言葉に、壁のカレンダーを見る。
 十二枚つづりのカレンダーを、三枚めくるまで爆豪は帰ってこない。一年の内の四分の一の間、一緒に居られない。
 数字としては分かるのだが、実感はまだ追い付いてきていなかった。九十日とはどれ程の長さだっただろうか。
 仮免補講の長さと一緒だと思えば、ずいぶん長く感じる。あの時から話す機会が増えたのだったなと、と爆豪を見る。
 明日から三か月、見られなくなる顔をじっと見る。
 大口を開けて料理を頬張っていた爆豪と、目が合った。
「たまの外食は良いが、蕎麦ばっか食うなよ」
「……言う程蕎麦食ってねえだろ」
 爆豪と暮らし始めてから、と付け加える。蕎麦は変わらず好きだが、今は食卓に並ぶ献立を楽しみにすることも、同じくらい好きだ。
「なあ、今日は何点だ?」
 これ、と食卓に視線を向ける。爆豪は考えるように咀嚼し飲み込んだあと「五十点」と言った。
 可もなく不可もなくの、まあまあらしい。
「俺が百とした場合な」
「当分爆豪の飯食えねえんだから、五十点の飯じゃなくて百点の飯食いたかった」
「ハッ、甘えンな。朝飯は作ってやってんだろ」
「朝と晩じゃ手の込み具合違ぇだろ。それも休みの日の爆豪の晩飯豪華なのに」
 はあ、と悩ましげに息を吐けば、これまでに食べた様々な料理が走馬灯のように思い浮かぶ。グラタン、茶わん蒸し、メンチカツ、筑前煮、すまし汁、アップルパイ、パンプキンパイ。それから、あれもこれも。
 じゅるりと涎が出そうになるも、今日食卓に並んでいるのは自分で作った五十点の料理だ。五十点だからといって、二品作れば百点になるわけでもないのだから、この世は厳しい。
 悲しみに暮れていると「明日の朝飯までは作ってってやる」と哀れみの声が降ってきた。なんだかんだ爆豪は優しい。
「いや、いい」と断れば、途端に機嫌の悪くなった「ア?」という地を這う音に替わる。
「出張行く人間に、んなことさせらんねえよ」
「……ンな早く出ねえからいい。好きなもん作ってやるわ」
「本当か。なら朝飯は良いから、晩飯用に煮物作ってってくれ」
 多めに頼む。
 目を輝かせながら言うと「急に図々しいな」と片眉を吊り上げた。これは仕方ねェなのパターンだ。爆豪のことだから朝飯を用意しつつ、煮物も用意してくれるのだろう。
 当分会えないことは寂しいが、明日の夕飯は楽しみだ。思いを馳せながら、五十点の飯を食う。
 そこで会話が途切れ、食卓は暫し沈黙した。
 いつものように、爆豪が先に食べ終わる。食器を片付けるように席を立つ。シンクで水音が少し聞こえた後、爆豪は冷蔵庫を開けてから戻ってきた。手には小さな器が二つ。よくおひたしだとか、ちょっとした副菜が盛られる底の深い器。
 なんだと怪訝な視線を投げれば、器の片方がスプーンと揃えて目の前に置かれる。
「プリン、食うか」
「食う」
 思わず即答すると、爆豪があきれたようにゆるく笑った。この表情も三か月見られないのだとと思うと、途端に寂しくなる。「あと二つ入ってるから、好きな時に、早めに食えよ」の言葉の柔らかさがこそばゆい。
 大きく頷いて、せっせと飯をかきこむ。食べ終えてすぐ、箸からスプーンに持ち替えた。小鉢を引き寄せ、甘いクリーム色をした表面を掬い取る。底からはとろりとカラメルが出てきた。凝り性だなと感心しながら、冷たいプリンに舌鼓を打つ。
「なあ」と爆豪が口を開いたのは、そんな時だった。
「なんだ」と顔を上げるが、爆豪の視線は手元のプリンに向いている。「これすげぇ美味いぞ」と言えば「当たり前だわ。そうじゃねェよ」と視線が向けられた。
 じっと、赤い視線に見つめられる。
 よく見るあの、燃え滾るような焼き尽くすような赤ではない、赤色。何かを考えて、言うか言わないか決めあぐねているような、そんな色だ。自信と鼓舞で両足を支える男の、ほんの少しの揺らぎ。
「俺が死んだらお前、ちゃんと次の相手見つけろよ」
「アァ?」
 反射的に、驚くほど低い声が出た。
 眉間に皺を寄せ思い切り睨み付ける。「ンで、そんなこと言われねぇといけねェ」
「ヴィランみてェな顔ヤメロ。あと最後まで聞けアホ」
 誰がこの顔させたと思ってやがるクソ野郎、と思いながらも渋々言葉を飲み込む。プリンを口に運ぶ。
「別に死ぬつもりもねえし、テメェを他の奴にやる気もねえわ。今でも引く手数多だろうが。放っといたら直ぐ他の奴に捕まんだろ。腹立つわ」
「ア? 知らねえ奴にしか声かけらんねえよ」
「知らねえ奴に声かけられてんのが問題だ、っつてんだよ」
「知らねえ奴に声かけられても、知らねえから着いてかねえ」
「……人の気も知らねえで、お気楽なもんだな」
 深々と溜息を吐かれては、釈然としない。むすっとスプーンをかじるように口に運ぶ。どんな話をしていても、プリンは美味い。最後の一口は惜しく思うほどだ。
 ふと視線に気づく。真直ぐなまなざしが、正面からぶつかってくる。ゆっくりと瞬きを繰り返しながら、見詰められる。まるで記憶に留めるかのように。
 そんな風に見られては胸が詰まる。真剣な表情の爆豪というのは、昔からズルいものだった。
 急にそんな話をしてそんな目をするということは、明日からの仕事はよほど厄介で、命にかかわるもののようだ。
 轟自身、仕事で数日家を空けることもある。だがせいぜい数日、長くて十日ほどだ。三か月も相手を一人残して行く気持ちとは、どんなものだろう。
 想像しようにも難しかった。
「なら爆豪も、俺が死んだら同じようにしてくれていいからな」
 小鉢の中にスプーンをからりと落とす。爆豪は鼻で笑って答えた。
「そん時はそのプリンを他の奴が食うことになるな」
「……それは、腹立つな」
「だからその顔やめろつってんだろ。ンでテメェの方がキレてんだ」
「爆豪の飯は、俺が食いてぇだろ」
「おーおーメシだけか?」
 飯だけじゃねえと唸ると、爆豪は肩を揺らして笑う。むすりと歪ませていた表情から、ふと力を抜く。釣られた様に笑いが移って、少し声を零す。この席を他人に譲るつもりなどない。絶対に嫌だ。
 それから席を立ち、リビングに置きっぱなしにしていた仕事用の鞄を取りに向かう。中から小さな紙袋を抜き出して戻る。頬杖をつき、ずっとこちらを眺めていた爆豪の前に置いた。
 爆豪は今、踏み止まるための理由を作っているのだろう。いざという時のため。これがそれの役に立つかは分からないが、少しくらい効果があるといいと思った。
「やる」
 言って、再び椅子に座る。轟から視線を外した爆豪が、紙袋を開けた。中に入っているのはお守りだ。今日の帰りに寄り道をして買ってきた。
「……交通安全かよ」
「安全な方が良いだろ」
「もっと他になかったんか」
「家内安全とかじゃねえだろ、家の外だから」
 困惑といった様子だった表情が一変し、プッと噴き出す。けたけたと笑い「大事に括り付けといたるわ」と撫で、机のすみに置く。
「本当は、指輪とか渡したかったんだが」と白状すると「アァ?」と、近日一の顔で睨まれた。調理中にコショウと間違えてシナモンの瓶を掴んだ時よりも恐ろしい顔をしている。
「ほら、爆豪怒るだろ。お前そういうの自分で選ぶ派だもんな」
「おー良く分かってんな」
「だから素直にお守りにした」
 お守り代わりの指輪、に憧れる気持ちは多大にあったのだが、そういうイベントごとを先に押さえると面倒なのだ。爆豪というやつは。
「指輪が交通安全のお守りになあ」
 しかしそうもニヤニヤと笑われると腹も立つ。でもまあいいかと、その様子を眺める。このやり取りも三か月お預けだ。
「なあ、連絡とれねえって言ってたが、全くか」
「全くだな。終わるまで一切連絡出来ねえ。あと、連絡もしてくんな」
「ア?」
 全くか、おはようもおやすみも家電壊したもか、と言えば「全くだ。家電は壊すな」と淡々と答えられた。
 その珍しい程淡々とした声は、状況確認にも似ていた。
「それから、俺のことだけ信じろ」
 いいな、と向けられた視線はピンと張りつめていた。
 なんだそれ、どういう意味だ。
 そう聞き返すことができない。強く光る赤い瞳が、聞くなと言外に伝えてくる。「わかった」と答える他なく、怪訝ながらも頷く。爆豪は「絶対、覚えとけよ」とわずかに表情を緩めた。
 良く分からないことを言って、踏みとどまる理由を作って、こいつは三か月どこに行くのだろう。