新手の既成事実

(虎伏)

  
 
 
 
 

 伏黒の部屋で映画を見ていた夜だった。
 昼間に「前に話したあの映画、配信されてた」と伏黒に声をかけられ「行く行く今日の夜行っていい?」と二つ返事で虎杖はうなづき夜を待ち、いつもの時間を見計らって伏黒の部屋の扉を叩いた。
 映画鑑賞がうっすら趣味になりつつあったし、誰かと一緒に見ると感想を言い合えたりして楽しい。忌憚ない意見をずばっと述べてくる伏黒と映画を見るのは、より一層楽しい。伏黒はホラーもゾンビもスプラッタも平気そうだけれど、動物ドキュメンタリー系にはちょっと弱い。
 程なくして静かに扉が開き「おう」といつも通りの伏黒が姿を見せた。秘蔵のポテトチップス大袋を小脇に抱えて「おじゃましまーす」と敷居を踏み越える。
 部屋に入り、すっかり定位置になっているクッションに座った。いつものようにとなりに伏黒が腰を下ろすと、コントローラーを操作してテレビに映った動画配信サービスの画面をクリックした。
 DVDも見られるしネットにもつなげられるそのゲーム機は、わりと最近伏黒の部屋に増えた物の一つだ。
 同じ物を虎杖も持っている。術師の給料で買って、便利さに感動して伏黒に性能を熱弁したことがあったり、配線を一通り引っこ抜いて小脇に抱えて伏黒の部屋に持ち込んだこともあった。どうしてそんなことになったかといえば、その日は釘崎を含めた三人での映画鑑賞の約束をしていて、なおかつ虎杖の部屋はいつもよりちょっと散らかっており、結果釘崎に入室を拒否されたせいだった。
 それからいくらかして、伏黒の部屋にも同じゲーム機が増えていた。元々はこぢんまりとしたノートパソコン一つで過ごしていたことを思うと、いっそ照れくさく感じる。だってノートパソコンの画面は小さくて、二人で並んで見るにはとても狭い。
 それはいい、それはとてもいい。
 そこまではよかった。
 映画も結構面白かった。露骨なベッドシーンがあってさすがにちょっと気まずいなあと思ったところもあったが、それも今となっては「まだよかった」の部類だ。それくらいなら、これまでにもあったからだ。
 ただそのときふと横を見たら、伏黒が眠たそうにあくびをしていて、なぜか不意に「えっちでは?」と思ってしまったことは大問題だった。
 伏黒の部屋着姿は結構ゆるい。基本的にだぼっとしたシルエットが多く、首回りなんかは大きく開いていたりする。これまでそれを気にしたことはなかったし、なんなら気づいてもいなかった。急に首のつまった服を着てきたら違和感を覚え、いつもはゆるい服を着ていたんだな、と思うだろうが、いつもがそれだとそう気にならない。
 つまり、今きづいた。
 眠そうにあくびをしながら、テーブルに頬杖をついて体を傾け、ゆるいTシャツの隙間から鎖骨をのぞかせていた。
 鎖骨だってよく見る。
 あくび姿だってよく見る。
 なのになぜ今「えっちだな?」と思ってしまったのかは分からない。
 全然分からない。いや分かるかもしれない。
 どうなのか。映画がそういうシーンだったので、奇跡的な結びつきが起きてしまったのかもしれないし、必然なのかもしれないし、誤作動なのかもしれない。
 虎杖の頭の中には「いやなんで」の一言が無数に飛び交っていた。
 なんでという疑問から記憶を反芻し、伏黒の姿とえっちだなという言葉がいっそう結びついてしまう。いや最初から結びついていたので、正確にいうならば、分離に失敗した。
 事故でくっついたものを、真にくっつけてしまった。
 友達相手になんてことを思ってしまったんだと、顔を覆って床をのたうち回りたいくらいだったが、実行に移したら間違いなく不審だし、当然理由を聞かれる。「伏黒のことえっちな気がしてきたら勃ってしまいました」などと当然言えるわけもない。
 そう、言葉が結びついてしまっただけでなく、勃っていた。まだうっすらとだが、いたたまれなさは最大に達している。
 あぐらをかいていた膝を叩くように掴み、ふーっと深呼吸をしてから、へらっとした笑みを作って浮かべた。
「ちょっとトイレ行ってくるな。前ごめん」
「おー」
 トイレに行く。
 これはウソではない。断りを入れて伏黒の前を通過しようとした時、急に腕を掴まれた。
「おい待て、本当にトイレか」
「本当だって!」
「いや、怪しいだろ」
 なんでムキになってんだよ、と腕を引かれる。こっちこそ、なんでトイレに疑いをもったんだ、と聞き返したいくらいだ。
 幸い「ちょっと失礼」と片手を前に出して身をかがめたポーズをしていたので、伏黒から股間は見えていないはずだ。
 そもそも勃ったと勘づかれる理由もない。いや、今まで映画でベッドシーンが流れていたので、そこで疑問を持たれた可能性はあるかもしれない。あれしきのシーンでつられて勃つと思われているとしたら、そのほうが恥ずかしいように思う。弁解したいが、弁解すると勃ったことを認めてしまう。
「いやいや」と振り払おうと腕を揺すると「座れ」とあごでクッションを示された。
「本当にトイレなんです伏黒さん」
「抜いてやろうか」
「いやいや」
 ウソじゃないんですトイレなんです。
 再度続けようとして「ん?」と伏黒の顔を二度見する。きっと変な顔をしていたのだろう。伏黒が怪訝そうに眉を寄せながらもう一度「抜いてやろうか」と先ほどより少し早口に言った。
 え、と大きく口が開いた。
「なんで!」
「勃ってんだろ」
「いやっ、そー、そんな、ことは」
「少し前から、勃ってただろ」
「ああ……」
 足から力が抜け、がくっと膝を床に打ち付けた。
 正座姿でうなだれて、背中を丸めることで未だ勃っている事実にあらがおうと試みる。このやりとりの間に萎えていてくれないものかな、と淡い期待を抱いたりもしたが「抜いてくれるってなに」と迂闊にも想像してしまったがために、残念ながら全く萎えていなかった。
「おら、こっちこい」
「いやいや待って? 百歩譲って勃ってることは認めるけど、それをなんで伏黒が?」
「なんか困んのか?」
「こま、こまらないかなあ? 伏黒のほうが困るんじゃないのかなあ?」
 腕を組んだ状態から指先を伸ばし、あごにそえる。
 できるだけ身をよじって考えるが、素早くこの場を去りたい気持ちと、未だ思い切り握られている腕がそれを許さない現実との間で板挟みになり、さっぱり思考がまとまらない。思考回路の大半を下半身に奪われているように思う。
 とにかく大変なんです! という気持ちばかりが頭を占め始めていた。実際とても大変だ。本気を出せば伏黒を振り切れるだろうが、なんというべきか、伏黒の声色がさも当然の善意を表していたので、暴れられずにいる。
 よじれてうなる虎杖の気を引くように、伏黒が掴んだ腕をわずかに引いた。
「ダチならそんくらいするもんじゃねえのか」
「えっ! するの? するかな?」
「しねえの」
「風の噂で聞いたことはあるけど、実際したとかは聞いたことない、かも、たしか」
 拾ったエロ本鑑賞だとか、同級生の兄の私物のAV鑑賞だとか、それくらいならあれども、友達に抜いてもらった実体験は聞いたことがない。友達相手でもやっぱ自分で抜くより気持ちがいいんだって、という、いっそ都市伝説みたいなものだと思っていた。
「したことねぇのか」
「ない、ですね……」
「じゃあどっちも初めてだから、いいんじゃねえの」
「えっ伏黒も初めてなの?」
「あるわけねぇだろ」
「ないのかあー」
 ありそうな口調だった気もする、と今更ながらに思い返す。
 ないのに提案してきたということは、さては普通の高校生なら当然のようにやることだと思っているのだろうか。呪術師の人はたまに変にズレているよな、と思い返すが、ズレているの大半を占めているのは担任の教師一人だったので比較が難しい。
 そもそも伏黒だって中学は普通の学校に通っていたはずだ。呪術の学校が高専からしかないのもあるが、だから特別世間に疎いということもない、はずだ。
 掴まれていた腕を引き剥がすべく、伏黒の手に手を重ねる。
「伏黒さんあのですね、そもそもそういうことは普通、お付き合いとかそういう段階が必要なんですよ」
「じゃあ付き合うか」
「なるほどね!」
 お付き合いをしたら万事解決。
 さすが伏黒頭がいい。そういうわけで俺は伏黒とお付き合いを始めた――。
「とはならないのよ!」
「面倒くせぇな」
「うそ! 今舌打ちした?」
「なにがそんなに嫌なんだよ」
「嫌とかじゃなくてね、もっとこう、根本的な話なのよ。伏黒さん、あのですね、そんな誰それ簡単に抜いてあげるとかいっちゃダメよ」
「誰にでも言うみてぇな言い方すんなよ。虎杖じゃなきゃ言ってねぇよ」
 これには唸って思わず自分の膝を殴った。ドッと鈍い音が響き、腕をつかむ伏黒がぎくりと指の力を強めた。
 そこそこ痛かったのだが、あいにくこれでも萎えていない。それどころか特別扱いにぐっと来てしまったほどだ。友達だから抜いてくれるんじゃなくて俺だから抜いてくれるの、さすがに嬉しくて照れちゃうかも。とか思って、いやいや抜いてもらったらダメなのだがとかぶりを振る。
「うだうだ言ってねぇでさっさと脱げよ」
「そうはいかないって」
「はあ、しょうがねえな、なら抜き終わったら別れりゃいいだろ」
「もっとダメになってるんだけど!」
 付き合うのが嫌だから抜いてもらっては困る、という話では全くないのですよ。
 という旨の話を、膝と膝をつき合わせてこんこんとこんがらがりながら解説したところ、途中から伏黒は面倒くさいなコイツという顔に変わっていた。最後はあさっての方向を見ながら小さめのため息を吐かれ「ようするに」と話を切り上げられた。
「付き合ってないから触らせたくない、触られるのは嫌じゃねえってことだろ」
「違うし!」
「いや合ってんだろ」
「えっ、本当に?」
 そんなはずがないと伏黒の言葉を改めてかみ砕くと、うっすら合っている気がしてきた。付き合っていないのでそういうことをしてはよくない、触られることは嫌ではない、そう言われたら間違いでは、ないかもしれない。ということは合っている。
 おかしいなと首をひねっていると、ずいっと伏黒が身を乗り出してきた。近い。まつげが長い。毛先が跳ねてる。待って人のズボン脱がせようとしないで。
「待って伏黒! 今くっつかれるとドキドキしちゃう!」
「……っせーな」
「そこで照れるの?」
 むすっとした唇から吐き出された悪態が、明らかに今までと違う温度をしていて、余計にドキドキしてしまう。している場合じゃないとなけなしの冷静さをかき集め、ズボンのゴムを引っ張ろうとする伏黒の手を掴んだ。
 虎杖の腕を掴む手も未だ握っていたので、これで両手とも封じたことになる。ただ手がクロスしてしまい、なかなかに間抜けな光景になってしまった。
 どうにかこうにかズボンから手を引き剥がし、伏黒の膝の上へと押し返す。
「俺だって初めてのお付き合いは、ちゃんと告白してデートしてってしたいの!」
「付き合ったことねぇのか」
「ないよ……」
 だからモテないのよ、と釘崎に言われた記憶が蘇ってきてうっすら落ち込む。今日一番萎えた気がする。伏黒は「ふうん」と興味がないんだかあるんだか分からない相槌をくれた。
「そういう伏黒はあるの?」
「ない」
「ないんだ」
 伏黒はモテそうなのに、と思ったが、中学でヤンキーをしめていたことを考えれば、遠巻きにされる側だったのかもしれない。そもそも本人に色恋沙汰への興味があまりなさそうだ。
 どうだろうか、あるのだろうか。でもあるのなら、抜き終わったら別れたらいい、とかいう発言はしないようにも思われる。
「とにかく、伏黒も初めてなら余計これが最初じゃダメでしょ! もっとこうさあ、水族館とか遊園地とか行こうよ!」
「いいけど」
「じゃー明日、明日遊園地ね! 休みだし任務もないし! ね! よしじゃあ今日は早く寝よう! 明日九時出発な!」
「わかった」
「そういうことでよろしく、じゃあおやすみ!」
 伏黒の「おやすみ」を背中に聞きながら、緊急脱出よろしく素早く部屋を後にした。
 どうにか抜かれる前に話をそらすことに成功した。万一気づかれて追いかけられる前に、急いでとなりの自室に滑り込み、鍵をかけ、今度こそトイレに入った。
 粛々と始末を進め、途中でずっと掴まれていた手の温度を思い出してしまい、いたたまれなさに悲鳴を上げながらも、吐き出してしまえばある程度の虚脱感と冷静さが戻ってくる。
 水の流れる音を背中に聞きながらトイレをでて、寝過ごし防止にアラームをセットする。
 ここから一番近い遊園地はどこだったか。都内にも確かあったはず。それか舞浜へ行こうか。そうしたら釘崎にも声をかけないとあとで文句を言われそうだ。
 ベッドにうつ伏せで飛び込んで、それからガバっと体を起こす。
「あれっ俺今伏黒と付き合ってることになっちゃってない?」