ここから果てまで、

(曦臣と懐桑)

 
 
 
 
 
 
 

「沢蕪君、失礼します」
 軽やかな声とともに、足音が入ってきた。ぱた、と扇が空気を仰ぐ音がする。琴の上に落としていた視線を上げる。そこに、聶懐桑の姿があった。
 指の腹は弦の感触を伝えている。ずっとそうだ。弾くことはなく、ただ乗せるだけで、なにもしていない。知らぬ間に息を止めていたのだろうか。深く思い空気が肺から押し出され、唇の隙間から漏れ出て行く。
「私はこれでも、閉関中の身なのだが」
「含光君に話したら、通してくれましたよ?」
 扇を胸元でぱたぱたと動かしながら、懐桑がひらりと進んでくる。卓の前まで辿り着くと、袖を翻し、座り込む。一問三不知と言われた情けなさはすっかりと身を潜め、背筋を伸ばして曦臣を見据える瞳には、宗主の風格が滲んでいた。
 観音廟の一件以来、彼を見る人の目は変わってきている。
 その噂は閉関した曦臣の元にまで伝わってくる程だ。宗主らしくなった。十年を経てようやく。頼れる兄がいなくなり、甘えられなくなったんじゃないか。やればできるものだ。なんだ、かんだ。
 人の噂には良いように尾ひれがつき、真実も虚実もない交ぜにして漂っている。誰にでも優しく弱者のことも気に掛けてくれ聖人君子のようだと褒め称えられていた者でも、一夜にして悪鬼羅刹の如く語られるような世の中だ。
「今日は、どんなご用かな」
 雲深不知処に入るだけでなく、忘機を説得しここまでやってきた用とは、なんなのか。琴に添えていた手を離す。膝の上に載せ握り込んだ両手は冷え切っていた。
「今お茶を淹れて貰っているので、少し待ちましょう」
「忘機に?」
「いえ、さすがに他の方に頼みました。いい茶葉が手に入りましたから、持ってきました。曦臣兄様も気に入ると思いますよ」
「そう」
 ふと、懐かしい記憶が脳裏をかすめる。懐桑の兄は雅なことや食に対する興味がさっぱりだったため、度々曦臣のところへ茶や食べ物を持ってきていた。「やっぱり兄上にはさっぱりでしたよ」と頬を膨らませながらも笑う姿に「諦めず明玦兄上にもお出ししたんですね」と答えていたのは金光瑶だった。
 聶明玦が世を去った後も、三人で茶を飲んだことは幾度もある。今になって思えば、一体どういう気持ちで卓を囲んでいたのだろうとめまいがする。腹を知らなかったのは曦臣ばかりか。
 程なくして、師弟の一人が茶器を乗せた盆を持ってきた。「どうもどうも」と懐桑が受け取り、卓に置く。そこでようやく、琴を片付けた。
 広くなった卓に茶器を並べ、懐桑が茶を注いでくれる。良い香りだと思う。だがそれで心が華やぐほどの余裕は、今はなかった。
「どうぞ。心が落ち着きますよ」
「ありがとう」
 差し出された茶杯を眺める。懐桑は茶を飲み干すと、小さな音も立てずに置いた。扇を広げ、パンと閉じる。音に呼ばれるように視線を上げる。懐桑の両手が扇を握りしめ、曦臣を見ていた。
「まずお話したいことが一つ。あの時、瑶兄様は曦臣兄様を刺そうとなんてしていませんでした。あれは私の嘘です」
「は」と、あまりに情けない響きが一音、口から漏れた。
 何故今それを話すのか。
 あの時懐桑は「分からない」としきりに繰り返していたではないか。
 阿瑶は私を害そうとなどしていなかった。
 懐桑の顔を見る。此度ばかりは、嘘ではないようだった。目差しは真っ直ぐ、曦臣を見ている。ならばあの時、諦めてじっとしていた阿瑶を、ただ刺してしまったのだというのか。
 私は。
「なぜ」
 なぜ、そんな嘘を吐いたのか。なぜ、今それを話しに来たのか。
 懐桑は扇を開くと口元を隠し、首をわずかに傾けた。
「決まっているじゃありませんか」
 仇討ちですよ。と言う言葉が聞こえてくるようだった。
 それ以外に、懐桑を突き動かしたものなどなかっただろうと、真っ直ぐな視線を見返す。昔も今も、地位や名誉を欲しているようには見えない。仙督の座を奪いたかったなどという理由ではないと察せられる。今になって懐桑が宗主らしい振る舞いを始めたのはただ、清河聶氏のためだろう。兄から継いだ宗主の座にふさわしくあろうとする、ただそれだけのように。
 今まで一問三不知を貫いていたのはひたすらに、仇討ちのため。
 そうだったと今まさに、白状したようなものだ。
 再び扇を閉じると、懐桑は空になった自分の茶杯に茶を注いだ。今度はすぐに飲まず、じっと中身を見つめている。
「嘘を吐いたことは謝りませんよ。曦臣兄様だって、私の兄上ではなく、瑶兄様を信じたじゃありませんか」
 すっと上げられた視線の中に、怒りが見えた気もしたが、気のせいかと思うほど瞬く間に消えてしまった。
 緩やかな瞬きを挟み、小さく息を吐き出す。
 今となっては、懐桑の言い分を正しいように思う。
 聶明玦の言葉を信じ、金光瑶の言い分を疑えば、彼は、彼らは死ぬことはなかったかもしれない。少なくともあれほど早く、この世を去ることは、兄弟げんかのわだかまりを残したまま、死別することも、なかったのではないか。
「恨んでいたのか」
 私のことも。
 たずねると、懐桑は視線をふっとそらした。
「怒ってはいました」
 言って苦笑して、曦臣を見る。
「私は兄上を失ったというのに、貴方たちは仲睦まじく楽しそうに一緒に居て、正直腹が立ちましたよ。当たり前じゃないですか。よくもこの野郎くらい、頻繁に思いました」
「そう、訴えようとは思わなかったのか」
 言い分から察するに、懐桑はずいぶんと昔に、金光瑶の所業に気づいていたのだろう。ならばそれを曦臣に告発しようとは思わなかったのか。皮肉のようだ、と思いながらも問えば、けろりとした表情を浮かべ、肩をすくめてみせた。
「いや無理でしょ。兄上の言うことも信じなかったのに、私の言うことなんてもっと信じませんよ」
「……返す言葉もないな」
「でも、曦臣兄様が信じなかったのも、仕方のないことだとは思いますよ」
 苦笑に似た声色は予想外で、ふと視線を向ける。
 懐桑は窓の外を見ていた。そこには別段、なにもない。しばし思案に耽ったのち、またこちらを見る。
「あの人は貴方に、一番綺麗な自分しか見せないよう必死でしたからね」
 それはもうものすごく徹底していたものですよ。とおどけるように話す。「沢蕪君のとなりに居るためには……というか、単純に嫌われたくなかっただけかもしれないですけど」
 呆気にとられながら呆然と「よく知っているんだね」彼のことを、と呟く。
 懐桑はげんなりと眉をよせ「ずっと仇討ちの機会をうかがっていましたからね。バレないように注意深く観察していました。もしかしたら私が一番瑶兄様のことに詳しいかもしれません。嬉しくないですが」と溜息を吐いた。
 話して乾いた喉を潤すように、懐桑が茶をあおる。
「曦臣兄様を傷つけるつもりはなかったというのは、本当のことだと思います」
 今更私の言葉を信じるのも難しいとは思いますが、今日は何一つ嘘を吐いていないと誓います、兄上にも誓えます。
 そう懐桑が言う。「これも嘘だったら、さすがに兄上に怒られるどころでは済みません」と困ったように眉を下げる顔は、よく見慣れた彼の表情だった。それこそ、聶明玦が生きていた頃に、懐桑に金丹がなかった頃から、見た表情だ。
 ようやく、目の前の茶に手を着けた。ほんのりと、甘い。
「今日は、それを話しに?」
「いえ、本題は別です」
「なら何故」
 その話をと問えば「これを伝えなければ、話せない内容だからです」と前置いて、懐桑は居住まいを正した。とぼけた情けなさをすべてしまいこみ、背筋を伸ばしあごをひき、曦臣を見据える。
「私は、兄上の封印を解きたいのです。そのために、姑蘇藍氏、沢蕪君の才をお借りしたい」
「……魏公子が、向こう百年は開けない方が良いと言っていただろう」
 それほどにあの棺が放つ怨念は深い。封棺大典で、懐桑も見たはずだ。未だあそこには見張りが立てられ、誰も近づけないようになっている。
 だが懐桑が冗談を言っている様にも見えない。じっと、睨むにも似た熱量の視線を向けられ、そして緩む。扇を開くとぱたぱたと揺らした。
「私だって、十年何もしていなかったわけではありませんよ。そもそも刀霊を鎮める方法があれば清河聶氏の問題の多くは片付きますし、その方法だって色々と探っていました。それに兄上の怨念の深さも分かっていましたしね。できる限りの情報を集め、私なりに術を見いだそうとしました。でも、まだ足りない」
 元より清河聶氏は邪祟をぶった切る方面に特化していますからね、鎮める術には少々疎いところがありまして。と頭をかく。そうだろうなと、あの真っ直ぐで力強い刀さばきを思い浮かべる。どれもこれもすべてが懐かしく思えるほどに、遠い。三人居た義兄弟は曦臣一人になってしまっていた。
「私はね、もう一度兄上に会うためならなんでもします。だからお力添えください」
「私にそんな力はないよ」
「でも、曦臣兄様も、瑶兄様に会いたいですよね?」
 これに思わず、息を飲んだ。
 会いたい。私が、彼に。会いたいのだろうか。
 彼の口から、真意を聞きたい。尋ねたい。それが、会いたいということに他ならないのだろうか。未だ問霊を行うこともできず、ただ琴を取り出しては指を添え、長い時間を過ごすだけの日々を繰り返している。これがそうだというのか。
 会えたら? 阿瑶に。
 かぶりを振る。
「私が訪ねていったら、きっと彼は怒るよ」
「いいじゃないですか、怒られても。曦臣兄様はもっとわがままを言った方が良いですよ」
「……懐桑」
「それに、曦臣兄様が閉関したと知ったら、瑶兄様はきっと驚きますよ。驚かしに行きましょう。それで驚いた顔でも拝んで、笑いましょうよ」
 その言葉に気が抜けたように、深く息が漏れた。胸につかえていたなにかが取れて、息ができるようになった心地がした。
 それでいて、溜息に似ている。
「これほどしたたかだったとは思わなかったよ」
「それほどでも」
 扇で口元を隠して笑った後、懐桑はまたパタンと閉じた。考え事をするように、閉じた扇で手のひらを打つ。
「私達二人でだめなら、魏さんも巻き込みましょう。たぶん嫌がられますけど、そこはうまく含光君の情に訴えたり、少々恩着せがましい感じでいきます。なりふり構いませんからね、なんでもしますよ。地の果てまで追いかけて、泣きついてもいいです」
「そうやって、今日もここへ通して貰ったのかい」
「いえ今日は素直に、瑶兄様のことを話すと言って通して貰いました」
「……それは、忘機が怒っていなかったか」
「怒っていた気がしますが、ほら、なりふり構えませんので」
 けろりと答えて笑ってみせるその顔は、本当にしたたかだった。「もう一杯もらえるかな」と茶杯を差し出すと「喜んで」と注いでくれた。
 くっと飲み干し、息を吐く。
 今度は気持ちを切り替えるように。
「君はそれでいいのかい」
「なにがですか?」
「阿瑶の解放は、君の仇の解放と同義だ」
 全てを賭けて虎視眈々と復讐の機会をうかがい、ついに成し遂げたというのに。鎮魂し安息の中に彼の魂を戻すことは、その復讐に反しはしないのか。
 懐桑は目を丸くした後、扇であごを触った。
 その表情は予想に反して、ずいぶんと、穏やかだった。
「瑶兄様には十分報いは受けてもらいましたからね。だからもう、おあいこでしょう」
「そうか」
 分かった、協力しよう。と答えると、懐桑は嬉しそうに笑って見せた。
 二人並んで立ち上がり、部屋を出る。やることが、やらなくてはいけないことが、頭の中をぐるぐると回っていた。ぼうっと止まっていた時間を取り戻すかのように、忙しく、落ち着きもなく。
 一度帰るという懐桑を送るべく、雲深不知処を進んだ。途中で忘機とすれ違うと、ほっとしたような笑みを向けられた。「含光君、こちらを睨んでいませんか?」と懐桑が怯えるので、やはり傍目にはわかりにくいようだ。
「曦臣兄様、手伝ってといいましたが、当然、私のことを恨んでもいいですからね」
 雲深不知処を出る寸前、懐桑がそうささやいた。それに頭を振って答える。
「おあいこなんだろう」
 私は君の兄を信じなかった。君は私に嘘を吐いた。
 その末にお互い大事な相手を失った。
 ここから先は、その大事な相手を解放するために手を貸しあう。それだけで、もういい気がした。これ以上、なにを責め合えというのか。
 懐桑に通行玉令を渡すと「いやさすがに、今日の今日でこれはどうなんですか?」とうろたえていて、それが少し、おかしかった。「不正に使用したら容赦はしないよ」と言えば、懐桑は首をすくめながらも恐る恐る、懐に大事にしまい込んだ。
「鎮魂の方法もですが、せっかくですし、瑶兄様に会ったらなんて言うかも考えておいてくださいね」
「そうだね。……君がいなくなって寂しいと言ったら、驚いてくれるかな」
「……それは、私もびっくりしました」
「なら間違いないね」
 笑って答えると、懐桑がぎこちなく笑い返してきた。「曦臣兄様も十分したたかなのでは?」なんて言うので「わがままを言った方が良いと言ったのは君じゃないか」と背を押し、外へと送り出す。
 去って行く後ろ姿を見送る。

 次に会えたらちゃんと、色々聞くよ。