彼女の恩人

(曦瑶)

 
 
 
 
 
 

 文机に、一通の書状が置かれている。
 白い紙の上に墨の色が走っていた。端正なそれは、きっと忘機が書いた物だろう。忘機。文机を挟んだ向かいで、背筋を伸ばして座っている、私の弟。
 書状に手を添えることもなく、顔を上げる。
 中に何が書かれているかは、先ほど説明されていた。地名、妖魔の種類、瞭望台に要請を出した誰かの名前、望んだ場合の報酬。もう一枚の紙には地図が記されていると言っていた。
 忘機の真っ直ぐな瞳と目を合わせ、それから、落とすように視線を下げる。何もかもが重たくて、あごを上げることも、腕を上げることも、立ち上がることも、それどころか視線を持ち上げることすらも、重労働のように感じられた。
「他の者に頼んではもらえないだろうか」
 かぶりをふって断ったのだが、忘機の視線は揺るがず、ずっと私を見ている。
 本来なら検討するまでもなく、受けるべきだと、そう分かる。分かるが心が動けない。引きずられた体も動かせない。すべて重たい。頭の中で考えだけが、出口もなく渦巻いている。
 どうしたかったのだろう。何が望みだったのだろう。
 私は。彼は。
「どうしても、兄上に赴いて頂きたいのです」
「それほど、人手が足りないのかい」
 こんな私に頼まなければならないほど。とまでは、口にしなかった。彼ならどうだろう、口にしていただろうか。笑った顔と、怒った顔が脳裏で明滅していて、ままならない。
 忘機は理由を述べることもなく、静かに、ひたすらに、こちらを見据えている。再度顔を上げると、少しばかり寂しげで、苦しげで、それでも尚何かを願うような、真摯な目差しが目に入った。
「お願いします」
 深々と頼まれては、それ以上は断れなかった。
「分かったよ」と頷くと、忘機の表情が和らぐ。ほっとしたその顔に、それほど私は酷い有様だろうかと、苦笑の一つでもしてみたくなる。
 忘機は再度の説明を行うと、静かに部屋を出て行った。ほどなくして遠くから、心配そうでいて活気のある声が「どうだった」と尋ねる様子が漏れ聞こえてきた。
 書状を手に取り、懐にしまう。
 足をひいて立ち上がり、久方ぶりに身支度を調える。剣を磨き、笙を携え、乾坤袋の中身を確かめ、足りない物資を補充する。何千何万と繰り返してきた夜狩の支度は、幸いにも体に染みついていた。深く思考せずとも、滞りない。
「兄様、薬を多めに持っていきましょう」
 そう、声が聞こえた気がして、振り向く。
 だが当然そこには誰も居ない。居るわけがない。この部屋には私以外に誰も居ない。ただの気のせいか。記憶が鮮明にかすめただけだろうか。
 昔、同じ事を言われたことがあった。
 あの時は振り向いた先で、彼が笑っていた。「妖魔に襲われ怪我人も出たことでしょうし、きっと薬が不足していますよ」そう言って、棚から一通りの薬を集める横顔を、覚えていた。
 私は笑って「そうだね、そうしよう」と答えたはずだ。
「阿瑶」
 口に出した名前は、あまりに情けなく揺らめいていた。長い瞬きを一つ挟んだ後、薬を取りに向かう。
 それから、雲深不知処を出た。
 地図に記された場所へと向かい、近くまで辿り着いたところで剣に乗った。空から森を見下ろし、妖魔の姿を探す。
 見る限り、出歩く人の姿はない。妖魔に怯えて家にこもっているのだろうか。少し離れたところに、町が見えた。
 それから、瞭望台も。
 一人の空は、これほど寒いものだったろうか。
 振り向けばまだそこに、彼がいるのではないかと思ってしまう。少し後ろで御剣し、私が見ていることに気づくと「どうしましたか」と笑いかけてくれる、そんな気がしてしまう。
 笑う顔をたくさん思い出す。
 だからこそ分からない。あれほど怒りに、憎しみに、哀しみに、落胆に満ちた表情が。それを向けられたことが。私に笑いかける裏で、彼はどういう顔をして、なにを思い、成していたのか。それは、なんのためだったのか。本心はどこにあったのか。
 なにがしたかったのか。
 強く突き飛ばされた胸の痛みがなくならない。
「誰か!」
 森の中から甲高い叫び声が聞こえ、我に返る。
 高く吠える妖魔の声に「助けて!」の悲鳴が重なった。
 素早く笙を取り出し、息を送り込む。妖魔をなだめ動きを止める旋律を奏でる。森を駆けていた妖魔の足音が止まり、その隙に森の中から人影が飛び出してきた。
 転がるように道に躍り出た姿を目に止め、地面に飛び降りる。朔月を手の内に呼び戻し、地面を踏み森の中へ飛び込んだ。染みついた動きに沿い、考えるまでもなく体が動く。低く唸る妖魔を一太刀で切り伏せて、シャンと鞘に戻した。
 今切ったこの獣が、夜狩の対象で間違いないだろう。種類と特徴が一致していた。
 一つ息を吐いてから、踵を返して森を戻る。
 着地した地点まで戻ると、先ほどの人影が道の真ん中でへたり込んでいた。腰が抜けたのか、カゴを背負ったその女性は、両手を地面についている。
「怪我はありませんか」
 しゃがみ込み手を差し出すと、なぜか勢いよく両手で掴まれた。
 包むようにぎゅっと握られ、瞳を輝かせた女性が、ずいっとのぞき込んでくる。怪我は、なさそうだ。
「仙師様! また助けて貰ってしまいました! 私のこと覚えていますか、私!」
「ええと」
 勢いに押され、言葉をつまらせる。
 以前にどこかで会ったことがあるらしい。彼女の顔をじっと見つめ、記憶をたぐる。すぐには思い至らない。年の頃は二十くらいだろうか。彼女がもっと幼い頃に出会っていたとすると、面影を辿らなくてはいけない。
 記憶の引き出しを探っていると、はっとしたように彼女が手を離した。「すみません、砂まみれに」と土のついた私の手を拭いながら、照れたように笑う。
「昔、全く同じように助けて貰ったことがあるんです。本当に全く。場所もこの近くで、襲われていた妖魔も一緒で。あの時は私は、もう少しちっちゃくて」
「ああ」
 そこまで言われ、思い至る。そうだ、この場所を訪れたことがある。まだ瞭望台がない頃に。夜狩の途中に。
 阿瑶と一緒に。
「ということは、また薬草を?」
「そうなんです。いやはやお恥ずかしい。何年も経っているのに成長していないみたいで」
「いえ、立派に成られました」
 立ち上がり、彼女の手を引く。
 以前会ったときはもっとずっと小さかった彼女の背は、ずいぶんと伸びていた。少女と呼べないほど、大人の女性へと成長している。面影はほんのりと残るのみだ。
「怪我はないようですから、薬草摘みを手伝いましょうか?」
「いえいえ、今日はもう摘み終えているんです。あとは帰るだけということろで、さっきの妖魔に見つかってしまって」
「勇敢さは変わりないようですが、危ないことはよしてくださいね」
「面目ないです」
 肩を落とす姿に、これまでも同じように森に踏み入ってきたのだろうと想像できた。
 薬師の家系に生まれた彼女は、薬草の調達から配合まで一人でこなす。以前助けたときも、彼女は薬草を摘むために一人、森に入っていた。必要な薬草が足りなくなった末、護衛も付けずに単独で森に向かい、妖魔に見つかった。それを私と阿瑶が見つけ、助けた。
「また助けて頂き本当にありがとうございました。ぜひお礼をさせてください!」
「いえ、瞭望台に届いた要請に従っただけですから」
 どうぞお気になさらずに。
 そう断ってしまうには真摯で熱烈な視線を向けられ、一つ言葉を飲む。記憶の中で、となりに立つ阿瑶が笑っている。「こういうときは」とささやいて、そっと私に肩を寄せる。
「じゃあ、水の一杯だけでも飲んでいってください。ね!」
 そう言われて、記憶を懐かしむ。あの日、水をもらえますかと提案したのは、阿瑶だった。
「では」
 お言葉に甘えて。
 承諾すると、彼女は嬉しそうに笑い、町の方角を指さした。「私の家は今もあの町にあるんです」と促され、共に歩き始める。
 二人で歩く森の中は静かだった。
「仙師様、今日はお一人なんですか?」
「ええ」
「なら、あの方が亡くなられたというのは、本当なんですね」
 不意に振られた話題に、言葉が詰まる。沈黙は肯定と同義だった。
 なんと答えたら良いのだろう。
 彼の話は、もうこんなところまで届いているのか。辺鄙で、仙門百家のどの家からも遠く、瞭望台がなければ妖魔も邪祟も、退治の依頼を出すことも難しい、このような土地にまで。
「そうですか……」
 落胆に満ちた声に、ぎしぎしと胸が痛む。
 あの日自分を助けてくれた相手が本当は、恩知らずで、邪悪で、人でなしで、という噂を、彼女はきっと耳にしているだろう。
 そんなことはないと真っ向から否定する自信ももうないのに、それでも彼がそのような言われ方をしている話を耳にすると、心が痛かった。
 この気持ちを彼が知ったら「勝手なものですよ」と罵るだろうか。それすらももう、分からない。
 理解していると思っていた彼は、今はただ遠い。
「もう一度、ちゃんとお礼をしたかったな」
 その言葉に、顔を上げる。土の色ばかりを眺めていた視線を上げ、となりを歩く横顔を見た。
 彼女の声色は、哀悼に満ちていた。
 瞳がほんのりと潤んでいる。寂しげで、悲しげで、悔いている。ぐっと目をつむった後、こちらを向いて苦笑してみせた。
「きっといつかまた来てくださる、なんて考えないで、お礼をしに行くべきでした。金鱗台に行ったとしても、お目にかかれたかは分からないですが」
「……貴方は、彼の噂を」
 耳にしていないのですか。
 予想をしていなかった反応に、戸惑いながらも問いかける。だが答えをもらう前に聞こえてきた「お母さん!」の呼び声に、話は逸れてしまった。
 町の入り口から、小さな少女が駆けてくる。それはいつかのあの日、彼と助けた彼女の面影を滲ませていた。
 小さな体が飛びつくように、彼女の足にひしと抱きつく。
「向かえに来てくれたの?」
 優しく笑って、彼女が少女の体を抱き上げた。ぐすぐすと鼻を鳴らした少女が、ぎゅうぎゅうとしがみつく。その背を、優しく手のひらが撫でている。
「私の娘です」
 そう紹介されて、ささやかに挨拶を返す。「ほら、ご挨拶は」と促された少女は顔を上げ、小さく頷くような、かわいらしい挨拶を返してくれた。
「お二人に助けてもらったから、この子がいるんです」
「大げさですよ」
「そんなことないです、事実ですよ!」
 からっと笑って少女の頭を撫でるその表情は、母親のものだった。助けた命がこうして大きくなり、次の命につながっていく様を見ると、やはり嬉しく思う。報われるために行動している訳ではないが、報われたのだと感じてしまう。
 彼は、どうだったのだろうか。今この姿を一緒に見ていたら、嬉しく思ってくれていただろうか。
「噂は知っています」
 ふと彼女が言った。
 こちらから問いかけたというのに、胸が騒いだ。喉の奥がからりと乾き、息が詰まる。胸が痛い。ずっと痛む。
 彼女は少女を抱え直しながら笑い、町の中へ進むよう視線で促した。返す言葉が見つからないまま、彼女に続く。
「こんな辺鄙なところでも、みんな噂好きですからね。むしろ他に娯楽がないというか」
「なら、」
「でも私には関係のないことじゃないですか」
 彼女はそう、からりと言い切った。
「どんな噂を聞いたって、私は貴方たちに、助けて貰ったことしかありませんから!」
 前を向いて歩く彼女の瞳は、あまりに眩しい色をしていた。
 相変わらず言葉は喉の奥でつまってしまっていて、なにも答えられない。少女を抱え、楽しげに笑い、軽やかに歩みを続ける彼女と並び、歩く。町は記憶よりもずっと、栄えていた。道は整えられ、建物の数も増えている。人が多く往来しており、活気もあった。瞭望台が、すぐそこに見える。
 関係ない。
 言い切った彼女の声に、迷いはなかった。ほんのりと滲んだ頑固さは、忘機に似ているように感じられた。忘機は知っていて、私をここへ来させたのだろうか。どうだろうか。
「あっ! 君!」
 不意に大きな声が向けられた。
 声の方へ視線を移すと、その先に男が一人立っている。真っ直ぐこちらを見て、驚いたように、焦ったように駆け寄ってくる。となりを歩く彼女は「しまった」といいたげに眉を寄せていた。けれど逃げるでもなく、すぐに肩をすくめ、誤魔化すように舌先を出しておどけてみせる。
「その薬草! また一人で森に行ったんだね! どうして教えてくれないんだ!」
「ごめんってー」
「妖魔が出て危ないって何回も言っているじゃないか! 瞭望台に頼んで仙師様を呼んで貰っているところだっていうのに、どうして待ってくれないんだ。君になにかあったら僕達は本当にどうしたら」
「分かったわかった、本当にごめんってば。それに妖魔はほら、もう退治してもらったから大丈夫」
「え」
 呆気にとられ眺めるばかりだった会話が、唐突にぴたりと止まった。同時に視線が二対、こちらを向く。
 男は今初めて、私を認識したかのようだった。
 目を見開きまじまじと視線を上下させた後、彼女へと向き直る。彼女は照れ笑いを浮かべながら、私に向け、男を指さした。
「夫です」
 そのあと、夫と紹介した男に向け、私を示す。
「この方はいつも話している、あの命の恩人の仙師様。さっきまた助けて貰っちゃった」
 紹介された者同士、見つめ合う。ほんの少しのぎこちなさを滲ませながら挨拶を交わすと、改めてというように深々と彼女の命を救った礼を述べられた。あまりに慌ただしく長引くその言葉に、彼女が照れ笑いを浮かべながら割り込み「こんなところで立ち話じゃ失礼だしさ、早く家に帰ろう」促される。慌てた様子の男を加えて、四人でゆっくりと歩みを再開した。
「ねえ、本当に、綺麗な方だね……」
「でしょ! もうお一方も、すっごく綺麗な方だったよ!」
 ひそりと男が彼女に耳打ちしたが、彼女の返事は自信に満ちた大きなものだったので、つい目を向けてしまう。目が合うと男は恐縮したように肩をすくめた。
「すみません、彼女がいつも貴方たちの話をしてくれるので、つい。まさかご本人にお会いできる日が来るとは思いませんでした」
「少し、恥ずかしいですね」
 照れくささにはにかむと、ほうっと溜め息が戻ってきた。「君がいつも話をしたがる理由が分かるよ」と男が頷いている。話をそらすように、彼女がふと町の外れを指さした。その方向には、瞭望台がある。
「瞭望台を建ててくださったのも、お二人なんですよね」
「いえ、私は彼を手伝ったに過ぎません」
 計画を立てたのは彼だ。
 私は求められた助言に応えながら、ただ手を貸したに過ぎない。
「そうだ、この人。瞭望台が出来たからこっちの町に越してきたんですよ」
「そうなんです。元はこの森を抜けた先の村に住んでいたのですが、瞭望台の建設を機に越してきました。それで、彼女と出会って」
「ちょっと、そんな話はいいでしょ」
 照れ隠しのように夫の背を叩く彼女の姿は微笑ましい。
「でも本当に、これが出来てから暮らしやすくなりましたよ。安心感がありますし、こうしてお願いをして、助けて頂くことも出来る。妖魔から命を救ってもらっただけじゃなくて、今に至るまでずっと、生活も助けて貰っています」
 本当に感謝しています。
 深く深く謝意を述べられ、この場に彼がいて欲しかったと、心から思った。
 彼の計画がこうして実際に、誰かの命を生活を助けている。彼はいつも弱い立場の人たちを思いやっていた。その心に嘘はなかった、そう思いたい。
 寝る間も惜しんで奔走する姿を、覚えていた。
「それなのにこの町の奴らときたら、噂の方を信じてさあ。生活が助かってるのはあいつらだって同じはずなのに、もう!」
「こら、みっともないよ」
「でも腹立つじゃない」
 夫になだめられながら、彼女は一軒の家の中へと入っていった。
 ここが彼女たちの家のようだ。開け放たれた戸の前で立ち尽くしていると、すぐさま彼女が出てくる。
「すみません、中はとっ散らかっていて……。ここでお待ち頂けますか」
「はい」
 彼女が置いていった小さな椅子に、促されるまま腰掛ける。
 家の中からは薬草の匂いが複数漂ってきていた。緑の匂いを吸い込み、深く吐き出す。多めに持ってきた薬の出番は、どうやらなさそうだ。
「ほらあんた、お水出してさしあげて!」
「え、水? 命を助けてもらって?」
「それは……そう! お茶を淹れて!」
「あの、水で構いませんよ。そのほうが、懐かしいですから」
 ばたばたと家の中を走り回る足音に向け、声をかける。ぴたりと音がやみ、照れくさそうな「すみません」が重なって聞こえてきた。
 それからほんの少し待ったところで、再び彼女が姿を見せた。
 背負っていたカゴと、抱えていた娘は家の中に残してきたようだ。代わりに持ってきた椅子を置き、照れくさそうにとなりに座った。
「お客さんを放っておくなって追い出されちゃいました。夫が水を汲んでくれているので少しお待ちください」
「素敵な方ですね」
「そう言って頂くと、なんだか照れますね」
 彼女が出てくる少し前に「話したいこと色々あるんでしょ」とささやく夫の声が聞こえていた。優しい人だ。
「あの……仙師様、やっぱり寂しいですよね」
 不意にそう問われ「え」と短く声が漏れる。
「顔色が優れません。ですが病でもないように見えます」
 そう言ってじっと、見つめられる。
 彼女の見立ては正しい。だがどうとも答えられない。口をつぐんでいると、彼女は視線を逸らしてあごを上げた。つられるように上を向く。
 今日の空は、快晴だった。
 雲も無く真っ青に澄んでいる。ずいぶんと久しぶりに、空の色を見たように思えた。
「私の見たお二人は、本当に仲睦まじかったですから。それはもう、私にもああして一緒にいてくれる人が居たらと思うくらいですよ。瞭望台が出来たこともきっかけですけど、そう思ったことがあったからこそ、あの人と一緒になったような気がします。なのにもういらっしゃらないなんて、寂しいですね」
 寂しいの言葉が上手く飲み込めず、視線を下ろし、ただ彼女の横顔を見つめた。寂しい。私は寂しいのだろうか。寂しくなってもいいのだろうか。
 視線に気づいた彼女がこちらを向くと、焦ったように両手を振った。
「すみません! 勝手なことを言いました!」
「……いえ」
 目を伏せる。
 彼の行いは許されるものではない。許すことはできないだろうと思う。そんな私が、一番近くで最も理解していると思っていたに過ぎなかった私が、寂しく思うことなどあっていいのだろうか。
 彼が私に話してくれた言葉の、どれほどが真実だったのかすら、もう分からないと言うのに。
 なにを信じたらいいだろう。私の気持ちはどこへ置けばいい。こんなにもふらふらと漂って、ままならず、どこへも行けはない。
「貴方は、噂を関係ないと言いましたが……、すべて本当のことだったなら、どうしますか」
「いえ別に?」
 あまりにあっけらかんとした声に、目を向ける。
 彼女は本当に不思議そうな表情を浮かべ、首を傾げていた。じっと目が合った末、彼女は人差し指を立て「もしそうだったとして」と空中を指さす。
 指のさし示す先を追う。青い空があった。
「昔、命を助けてもらって、今も生活を助けて貰っていることは本当のことですから。本当に誰を殺したとか陥れたとして、私は被害を受けてないですし。あはは、これだと無責任な言い方になっちゃいますけど。まあいいじゃないですか、みんなだって無責任に悪く言うんだから、私くらいずーっと感謝していても」
 笑って彼女は言葉を結んだ。
「ずっと恩人です。もちろん貴方も」
 屈託のない笑顔が、すっと胸に落ちる。
「そうですね」
 そう素直に、言葉が出た。
 どれほど世間から悪く言われていても、彼女にとってはただの恩人でしかない。彼女はそれでいいと決めている。その真っ直ぐさが、ひどく眩しく見えた。
「私も、私に笑いかけてくれたことは、本当だったと思いたい」
「え、それは本当だと思いますよ? あっ! すみません一度しかお会いしたことないのに知った口をきいてしまって。でも、あの時のあの方は、作り笑いと言うには本当に」
 楽しそうでした。
「たいっへんお待たせしました、お水です。あの、本当にお水でいいんですか? お茶もありますよ」
 娘を背負った夫が、家の中からひょこりと顔をのぞかせた。手に持った湯飲みには、たっぷりと水が注がれている。「本当におそいよ」とからかう彼女の声は明るい。
 礼を述べて受け取って、揺れる水面を眺める。不格好に笑う自分の顔が映り込んでいた。
「ありがとうございます、本当に」
 深々と礼を述べると、夫は彼女の顔を見て、それから首を傾げた。
「あの、ただの水ですよ」
 心底不思議そうに言われて「はは」と笑いが漏れる。久しぶりに笑った気がした。
 阿瑶。
 私は貴方がいなくて、寂しいですよ。

     ■■■

 死んだ、死んだ、もう絶対死んだ。
 枝にぶつかることも、息が上がってうるさいことも、心臓が痛くて苦しいことも、全部気にかける間もなく、森の中を走った。背後からうなり声が聞こえてくる。近づいてくる。
 死んだ、死んだ。絶対に無理。逃げ切れない。
 なんで森に来ちゃったかな。だって薬が足りなかった。妖魔のせいで怪我人が増えて、薬草を採りに行く人もいなくなって、行くしかなかった。自分で行くしかなかった。薬がないと助からない人が居る。見捨てるなんて出来なかった。
 ちょっとくらい、大丈夫だと思った。
 全然大丈夫じゃないからな! と少し前の私に言いたい。もっと気をつけろ。すぐ見つかる。薬草の一つも摘んでいないのに。
 首筋を熱く粘ついた息が撫でた。
 死んだ。これはもういよいよ死んだ。さっき見えたあの鋭い牙に、がぶりとやられて死んでしまうんだ。せめて一瞬で死にたい。痛いのは嫌だな。ああ短い人生だった。
 なんてすっかり諦めていたとき、白い光が見えた。
 流れ星のように光がきらめいて、私の背後に落ちる。それから、金色が見え、気づけば体がふわりと浮いていた。金色の衣に身を包んだ誰かに抱えられ、空を飛んでいる。
 視線を上げると、とても美しい男の人の顔が見えた。
 金色の衣、黒い帽子、額を飾る赤い印、なびく真っ直ぐな黒髪。すべての造形が美しくて、溜め息も出ない。最も息切れをしていて、まともな息を吐けもしないのだけれど。
 驚きも悲鳴も、もう何もかも出ない。ただ苦しくて呼吸を繰り返すばかりだ。心臓だって、どこに収まっているか分かるほどにうるさい。
 やっぱり死んでしまったのかも。ここはあの世なのかも。
 そう思うほど、きれいな人だった。
 野太い獣の断末魔が聞こえ、はっと我に返る。地上を振り向くと、白い光が最後に短くきらめき、そして消えた。「何度見ても美しいですね」と美しい人は私を抱えたまま独り言のようにささやいた。静かに高度を下げ、洗練された仕草で地面に降りる。チャンと音を鳴らし剣がどこかへ収まる。
 そこで私は、仙師は剣に乗って飛ぶという話を思い出していた。
「曦臣兄様」
「この辺りに妖魔が出ると聞いていたけれど、思ったより数が多いようだね」
「ここは仙家からも離れていますし。やはり瞭望台は必要でしょう」
「そうだね。阿瑶の見立ては正しかった」
「曦臣兄様の助言あってこそですよ」
 やっぱり私は死んでいるんじゃないかな。
 改めてそう思ってしまうほど、微笑み合う二人は美しかった。曦臣と呼ばれた人は、真っ白な衣に身を包んでいる。穏やかで優しい目をして、私を抱えた人を見ている。それからふっと、こちらに視線が動いた。
 二人分の視線が降り注いできて、思わず縮こまる。
「お嬢さん、立てますか?」
 金色の人に問われ、驚いて口をぽかっと開けた後、急いで首を縦に振る。「ですが血が出ていますよ」と白い人に聞かれ「枝に引っかけただけだから大丈夫です! 立てます!」とまくし立てる。
 ふふと笑った声が頭上から聞こえ、そっと地面に下ろされた。靴の裏で土を踏み、自分の体の重みを感じたことで、やっぱり生きていたみたいだと実感した。
「ここは危ないですから、せめて出歩く際は大人の方と一緒に……と言いたいところですが、なにやら切迫した事情があるようですね」
「えと……はい、薬草が足りなくて」
「そういうことでしたら、薬草摘みを手伝いましょう。いいかな、阿瑶」
「ええ、もちろん」
「えっ! そんな!」
 命を助けてもらった上に、さらに手伝わせるわけにはいかない。それもこんな美しい人たちに!
 そう思い、手を振り全身全霊で辞退を申し出ようとしたのだが「必要な薬草の種類を教えて頂けますね」とまばゆく微笑みかけられては、口を滑らせ薬草の名前を白状してしまうと言うものだ。
「薬草集めは久しぶりですね」
「そうだね」
 なんて、楽しげに笑い合う姿に目を奪われている間に、あっという間に二人は森の中に消えてしまった。慌てて私も薬草集めに向かう。しかし草陰が音を立てる度に身構えてしまい、さっぱり振るわないでいる内に、二人がすべて集め終えてしまった。
「これで足りますか?」と差し出された薬草は、予定していた採取量より多いくらいだった。恐縮しひたすらに頭を下げる。
「あの、お礼をさせてください! この近くに町があって、私の家もそこにあるので!」
「いえお気になさらずに、通りかかっただけですから」
 去って行きそうになる後ろ姿を慌てて引き留めたのだが、白い人にそうあっさりと言われてしまった。
 ああいった妖魔を退治してもらうと報酬を支払わなければならないはずなのに、それも求められず、お礼も不要という。当然のことをしただけいう顔をされても、こちらだって命を救われている。その上仕事まで手伝って貰った。なんのお礼もしないで別れる訳にはいかない。
 引き下がらず「少しだけでも!」とお願いすると、金色の人が「では」と微笑んで、人差し指を立てた。
「お水を一杯いただけますか?」
「阿瑶」
 困ったような白い人の声に、金色の人がひそりと「こういうときは、何も頂かない方がかえって気にさせてしまいますよ。それに、返せない思いというのも辛いものですから」とささやいた。君がそう言うならというように、白い人が苦笑する。
「では、私も一杯いただいてもよろしいですか」
「もちろんです! 行きましょう!」
 あっちです、と二人を先導し、私は町へ向かう。
 歩きながらちらちらと振り返って見る度、二人は和やかに談笑していた。時折こちらに向けて話しかけてくれさえする。他に妖魔や邪祟の被害はないかを確認されたり、薬師の家系について聞かれたり。
 美しいだけではなく、穏やかで優しくて、光のような人たちだ。こんな人が本当に存在するなんてと、つい何度も振り返ってしまった。
 家に帰りつくと水を二杯渡し、さらに粘って水筒にも注がせてもらった。
 美しい所作で水を飲み干してから、二人はどこからか地図を取り出して広げ、私を手招きした。
「この後この村へ行こうと思っているのですが、この近くで危険だと言われている場所などはありますか?」
 のぞき込んで、地図を見る。多少読み書きが出来るので、なんとか読解できた。「ここがこの町ですよ」と金色の人が地図を指さす。「それからこの森が先ほど貴方と出会ったところです」
「ええと……この森には近づくなって言われています。鬼が出るからっていうんですけど、見たって話は聞いたことがないのでみんな半信半疑です」
「実際に森へ行った人は?」
「あー、前に旅の人が行くと言っていたって聞きました。その後のことは知りませんが」
「とすると、ここが妖魔の住み処の可能性が高いですね」
「陰気が溜まりやすい場所もあるかもしれないね」
 何の話だろうと二人の顔を交互に眺めている間にも、知らない言葉が飛び交って話が進んでいく。分からないながらに予想すると、彼らはこの地域を歩いて怪異の話を集めて回っているらしかった。
 他の町でも同じように話を聞き、ここに来たのだろう。
 そんなことをして何の得が、なんて考えてしまうが、きっと野暮な問いだろうから口にしないでおいた。最後に「今から行けば、まだ間に合いますね」と金色の人が結んで、地図を片付けた。
「え、もう行くんですか」
「はい。寄り道が増えましたので」
 ありがとうございました。と湯飲みを二つ返され、両手で受け取る。
「こちらこそ、助けて頂きありがとうございました!」
 深々と礼を述べると、彼らは最後にもう一度私に笑いかけ、身を翻して歩き始めた。
 白と金色の影が、寄り添うように遠ざかる。
 同じ歩幅で歩いて、肩がそっとふれあう程に近く、時折顔を見合わせて笑い合っている。
 いいなあ、なんて思う。
 仲睦まじいという言葉は、彼らのためにあるのだろうと考えてしまう。ほんのわずかな時間を共にしただけなのに、彼らがいかにお互いを想い合っているか、垣間見えてしまった。目差しはずっと柔らかで、言葉には尊重があって、お互いのことをよく理解している。
 いいなあと、もう一度思う。
 私はその後ろ姿をずっとずっと、見えなくなるまで見ていた。

 あれから何年も経ち、金光瑶が死んだという噂がここまで届いた。
 彼らの名前が藍曦臣と金光瑶であるということは、瞭望台が出来たときに知った。恩人に名前を問うことすら忘れていたなんて、と気づいたときには恥ずかしくなったものだ。
 再び藍曦臣に命を助けて貰い、またこうして去って行く後ろ姿を見送る。あの日寄り添っていた影は、今は一つしかなくて、その背中はやはりとても、寂しそうだった。
 瞬きの隙間に、ふと二人が並んで見えた気がした。

 当然気のせいで、もう一度瞬きをしたときには見えなくなっていた。