傑のグルメ

(呪霊が美味しい謎時空五夏)

 
 
 
 
 
 
 

 透明な呪力がたなびいていく。
 真っ黒な帳の下、悟がぱっと飛び上がる。呪力がその軌跡を描いていた。綺麗な男だった。言動はまあまあ難ありだが、強さと、呪力の美しさは群を抜いている。
 それこそ世界で一番。
 ここにはあちこちに呪霊の残穢が漂っていた。どんよりと淀んだ色が対照的で、わかりやすい。
 本日の任務は一級案件だ。
 まだ人的被害は報告されていないが、術式を持っていることが確認されており、祓除が急がれる。対象は一級一体、加えて周辺には複数の低級呪霊が目撃されている。低級呪霊も可能な限り祓除のこと。
 これが今日の任務内容。
 一級を悟に任せ、近場の呪霊に向けて手をかざし、文字通りに丸め込む。ぽいと口に放り込み、ゴクリと飲み込む。
 喉をほんのりと甘い味が通り抜け、ふっと消える。
 味から推測するに、今のは三級だろう。四級では味がしない。強ければ強いほど、複雑な味がした。
 端的にいえば、美味しかった。
 低級呪霊のほとんどを片付けたところで、澄んだ色をした残穢を追う。悟はすぐに見つかった。掌印を構えた後ろ姿の先に、のたうつ呪霊の影がある。蒼の対象範囲に捕まり、中心に引っ張られながらも抵抗している。ほぼ決着しているも同然の状態だ。
 存外早かったなと考えたところでハッとして「悟!」と声を掛ける。
 急いで手をかざし、呪霊をこちら側へ引っ張る。相当弱っていたようで、蒼による拘束がふっと緩むと、素直に傑の手の内に収まった。
「あっぶな、祓っちゃうところだった」
「そんなことだろうと思ったよ」
 肩をすくめると、悟が振り返る。同時にまとっていた呪力が緩み、霧散する。きれいなのに勿体ないなと、この頃よく思う。
 口を開け、丸めた呪霊を放り込む。
 呪霊は強いほど美味しい。これまでに取り込んだ呪霊は準一級まで。一級はこれが初めてだ。いったいどんな味がするのかという好奇心が膨らむ。高専に入ってから、遭遇する呪霊の強さがぐんと上がった。強い呪霊と相対しても、悟と一緒にいて負ける気がしない。とすればひたすらに、味への好奇心が強まっていた。
 しかし困ったことに、目下同級生が一番美味しそうに見えてしまっていた。
 横目に悟を見る。
 傑が知る限り、この世で一番強いのではないかと思う、同級生。会ったことのある呪術師の人数は限られているため、悟よりも強い人も居るのかもしれない。だがこれほど綺麗な呪力をしている人はきっと他にいないだろう。
 なんて思ってしまう。
 美味しそうだなと思う度、危険思想みたいだと呆れてしまう。そもそも呪術師に味があるのかも知らない。呪霊に感じる味が、何に由来しているのかだって知らなかった。
 考え事の合間、一級呪霊をごくりと飲み込む。
「うっま!」
 考えるよりも早く言葉が口をついて出て、はっと目を見張る。サングラスを頭にさした悟が、目を丸くして傑を見ていた。
 呪霊に味があることを、話したことはなかった。
 しぱしぱと瞬きを繰り返す目に見つめられながら、どうしたものかと考える。話すことでもないと思っていたが、隠すことでもないだろうか。話すとして、どこからどれだけ話すのか。
 そんなことを考えながらも、今取り込んだ呪霊がやけに美味しかったという感情が前に前に出てくる。
 美味しかった。反射的に口にしてしまうほど。
 味の奥深さが、今まで取り込んだ呪霊の比ではなかった。それだけ数多の負の感情が交じりっているということかもしれない。向けられた感情の数や、奥行きが、呪霊を育て、味を複雑にする。とすると嫌な気持ちにもなるが、それでも美味しいものは美味しかった。
「え、呪霊って味あんの?」
 当然、悟にそう聞かれた。
 不思議そうで、少し不満そう。なんで今まで教えてくれなかったの、とでも言いたげだ。出会った頃の、他人に興味なんて無いです、という顔をしていた悟を思い出す度、仲間はずれに拗ねる姿が可愛く思える。
 口の端をぬぐいながら「まあね」と答える。
 ぱっと空が明るくなった。悟が帳をあげたようだ。
「何味?」
「砂糖みたいな味がほとんどかな」
「腹膨れる?」
「いや全く」
「あー、腹に溜まってるわけじゃないもんな」
 青い悟の瞳がじっと、傑を眺めている。視線がわずかに上下に動く。飲み込んだ呪霊の行き先を見られているのだと気づいて「おい」と悟の顔に手をかざす。内側を見透かされるのはどうも落ち着かない。とはいえ六眼相手だ。隠したところで元よりずっと見えているのかもしれない。
 悟はひょいと腰を曲げて、傑の掌を避けるように顔を出した。
「今日までノーリアクションだったってことは、強い方がうまいの?」
「……そうだよ。低級だと甘いだけだけど、強くなると味が複雑になって、まあ美味しいね」
「砂糖がケーキになるみたいな?」
「ニュアンスはそんな感じ」
 具体的に苺味だとかメロン味だとかがあるわけではないし、似た味の食べ物を挙げることも難しい。ただ美味しいと感じる。
 そんな話をかいつまんですると「取り込んだ呪霊の強さを測るためなのかもなー、呪霊操術特有の機能っぽいね」とか言って、勝手に納得していた。
 そしてパチンと指を鳴らした。
「あっ、たまに俺のことじっと見てんのそれか!」
「なに、なんの話?」
「見てんじゃん。任務中とかたまに。あー、よく思い出すとあれかも、術式使った後とかが多いかも。呪力見てた?」
 どう? と指をさされ「え」と声が漏れる。
 青い瞳と見つめ合いながら、ぐるりと思考を巡らせる。そんなに見ていただろうか。見ていたと悟るに気づかれるほどに。
 というか今の指摘、美味しそうだなと思っていたことまで察せられていなかったか。本当に? さすがにそんなことはないか。しらばっくれたらバレないだろう。
 よし、しらばっくれよう。
 そう思ったのだが「ちゅーしたら味分かる?」と聞かれて目論見は無残に霧散した。
「は?」
「俺も呪霊が何味か気になるし、傑も俺の呪力が何味か気になるんだろ。ウィンウィンじゃん」
「いや待て、正気か?」
 今キスしようといっているが本気なのかという気持ちと、こいつ今ちゅーって言い方したなという気持ちが、まぜこぜになって混乱する。
 突拍子もない提案にそれなりにおののいたはずなのだが、悟があまりに平然とした顔をしているので、そう変なことを言われていないのではないか、という気がしてくる。
 いやどうだ。好奇心だけでキスできるのか、目の前の男と。できるかできないかで考えれば、どうしても嫌というほどではない気がするな、という結論に至る。
 真っ白なまつげを揺らして瞬きをし、悟の青い瞳が隠れて現れる。
 悟が呪霊だったら、絶対一番美味しいんだよね。
 なんて何回思ったかしれない。悟を呪霊にしたいわけでも、飲み込みたいわけでも、全くないというのに。
 好奇心。それだけ。
 一番美味しいに違いないと思うほど、強さを認めた相手。同級生。今まで出会った誰よりも、最も近いところにいると思っている相手。何も問題がないのではという思考が勝りかけ、喉が鳴る。
「傑は気になんねーの」
 ならないよ。
 そう言い切れるほどの理性がなかった。好奇心、本当に、それだけ。その上、絶対に嫌でもなかったから。
 帳下ろしたままにしておけばよかった。
 唇をくっつけてから、そんなことを思った。帳が上がったのになかなか戻ってこないからと、補助監督が探しに来たらどうしよう。
 唇を触れあわせただけでは味はしなかった。そもそも呪霊ではないから味がしないのかも分からない。
 キスと言うには色気もなにもない触れあいだった。ここで離れて「味しないね」と言ってしまえば、キスをした事実すらうやむやになりそうだ。
 好奇心に負けただけ、ちょっと肩がぶつかっただけ。なんてことないお遊び、事故にすら近い。
 あごを引いて離れようとした時、急に抱き寄せられた。しかし抱きしめると言うにはやはり色気もなく雑で、距離をつめるため手繰りよせただけ、みたいな手つきだ。
 離れるつもりがより密着し、唇がこすれあう。唇の端を噛まれて、危機感のような、そうではないような、ぞわりとした感覚が背中を走る。
 驚いてわずかに開けた口の隙間から、舌がぬるりと入り込んできた。「正気か!」と叫びたいところだったが、口の中を無遠慮に舐められて、言葉どころか、息を吸うことすらままならない。
 反射的に悟の腕をぎゅうと握るが、舌の動きに怯んだ様子は見られない。口の中に飴があると信じているかのような、好き勝手具合だ。息苦しいだけならまだしも、ぞわぞわとした気持ちよさがまで混じってきて困惑する。ぼうっとする。熱い。思考があやふやになってくる。
 今何をしていたんだっけ。呪霊の味を確かめたかったのではなかったか。悟の呪力は、これは、味はしているのか。
 鼻を抜けるように「ん」と悩ましげな声が漏れ、我に返った。
 勢いをつけて悟の脇腹に重めのパンチを打ち込むと、触れていた熱の全てが吹き飛ぶように離れていった。
「いってぇ! マジのパンチ! バカ!」
 少し離れたところで悟が膝をつき、脇腹を押さえて倒れ込んでいる。思いの他きれいに入ったので、青あざくらいにはなったかもしれない。
 今日一番の怪我だななんて考えながら見下ろしていると、つやりと唾液に濡れた唇が目についた。カッと顔が熱くなり、自分の唇も雑に拭う。
「そっちこそ好き勝手しただろ! あんなに人のこと舐め回して、君の味覚はバカなのか?」
「だって味しなかったし」
「なら味はしないんだろ。私以外、呪霊の味は分からない、そういうことだ」
「俺は何味かした?」
「無味だね」
 キスし損だと額をかくが、そのくせ誤魔化せない程度に体温が上がっていて居たたまれない。深く溜息を吐き出す。
 いつまで経っても悟が立ち上がらないことに気づき、視線を向ける。膝をつき脇腹を押さえて背を丸めたままの姿勢で、傑をじっと見上げていた。
 その頬はうっすらと赤くなっていて、眉は困ったように下がっている。見慣れない顔だ。むしろ見たことがない。じっと見つめ合っていると、悟が短く瞬きを繰り返した。
「……勃った」
 とんでもない報告にひゅっと喉が鳴る。
 だがすぐに、そこまで驚くことでもないかと思い直す。悟はわりとなんでも、細々報告してくる。時々三歳児なのではないかと疑念を抱くことすらあった。それと同じだと思えば、いつものこと。なぜそうなっているのかの原因について考えなければ、であるが。
 大変困りました、という珍しい表情を向けてくる悟を見ながら、はたと思い出す。
「プロテイン飲んでいるとザーメン甘くなるらしいよ」
「呪霊と味比べられんのやだよ!」
「私になにさせる気だ!」
 いや、そういうことを言ってしまったのと同じか。どうか、本当にそうだろうかと腕を組む。頭を悩ませている間に携帯電話が震え補助監督から電話がかかってきてしまった。「なにか問題が発生しましたか」という心配そうな声に「喧嘩になっていました」と言って誤魔化した。そのまま前屈みの悟に肩を貸して戻ることで、全てをうやむやにする。合流した補助監督には心配されただけで、たぶんバレていないはずだ。
 寮に帰って服を脱いだ悟の脇腹には、やっぱり綺麗な青あざが出来ていた。