表に出ろ!

 
 
 
 
 今日一日ずっと、傑の視線がうるさい。
 おはようからして目つきが鋭かったし、授業のふとした合間だとか、雑談中の何気ない沈黙の瞬間だとかに、じっと見てくる。そのくせ視線を向けると、眉間に皺を寄せて逸らされる。
 なにかしたっけ。
 傑を怒らせるようなこと、なにかあったっけ。今日はまだ言い争いの一つもしていないし、勝手に傑のとっておきのおやつを食べただとか、こっそり教科書に落書きをしただとか、携帯の待ち受けを俺の自撮りに差し替えただとか、そういうこともしていない。
 はて昨日はどうだっただろう。けれど昨日は任務があって、帰ってきた後はさっさと解散して眠っていた。その時なにかあった覚えはない。記憶にも残らないような雑談を「んじゃおやすみー」で締めて、それぞれの部屋に帰っただけだ。よくよく思い出すと傑が一瞬、何か言いたそうにしていた気が、するような、しないような。疲れて眠くてぼんやりしていただけだった様にも思う。
 それで今日だ。昼飯を食べ終えて、教室に戻ってきて、硝子を交えて三人、だらだらと雑談していた。傑は頬杖をついているが、普段通り和気藹々と会話に参加している。だがたまにじっと、こちらを見る。睨まれているのではという鋭さが混じる熱量に、なに、と視線を向ければ、やはりひょいと逸れる。
 本当に、なんなのか。
 不思議に思いながらも雑談を続けていれば、授業開始五分前の予鈴が鳴ると同時に、傑が椅子を引いた。
「どした、トイレ?」
 からかうように見上げた先、傑がこちらを睨むように見下ろしていた。睨んでいるよなこれ、とサングラスの隙間からうかがう。まさか、トイレと言ったことで機嫌を損ねたわけではないだろう。しぱしぱと瞬きを繰り返しながら見つめていると、傑が顎をしゃくって窓の向こうを示した。
「悟、表に出な」
「え、なんで」
 これに返事はなく、傑はそのまま真っ直ぐ教室から出て行った。本当に今から外に行く気なのアイツ、と硝子を振り返ると「さぁ」と肩をすくめられる。
 なにかしたっけ、本当に。
 わっかんないなあと後頭部をかきながら、仕方がないので後を追う。堂々と伸びた背筋に「なあー」と声を掛けるが、これにも答えはない。
 今一度考えるが、表に出ろと言われるような心当たりは、やはりない。だがそんなつもりがなくても怒らせることがあるので、本当に全く、一ミリも、いるとも思っていないカミサマに誓って絶対にない、とも言い切れない。
 困った。面倒だ。理由も分からないのに謝りたくもない。ごめんなんて言葉は、生まれてこの方ほとんど口にしたことがなかったというのに、傑に出会ってから既に何回言わされたことか。
 ぐるぐる考えている間に、校舎から出てしまう。本当に外だ。授業が始まるまであと五分を切っているのに、何をする気なのか。まあ本当に傑を怒らせたときは、あと何分だろうがどこだろうか、喧嘩になるのだけれど。
 校庭に向かうものと思っていたのだが、予想に反して傑は校舎に沿うように歩いて行く。ポケットに手を押し込んで、無言でそれに続く。
 ぐるりと外周を伝い、建物と建物の隙間に滑り込む。陽の光が遮られる。影が落ちる。ひと目につきにくい場所だ。一体どこを目指しているんだろうなと、探るように視線を逸らしたその瞬間、傑が急に振り向いた。
 振り向いて、襟首を掴まれる。
 えっここで喧嘩すんの、こんな狭いところで、なんでと考えながらとっさに身を引くも、傑の力の方が強かった。というかこの場合、不意打ちを決めた側の方が優位というだけだ。言い訳じゃ無いけれど。
 ヘッドバットでもされんの俺、あっ無下限出してない、どうしよ。
 なんて色々考えたが、身構えるような衝撃は襲ってこず、唇に柔らかい感触が押しつけられただけだった。
 むにゅっと、唇同士が触れあう。
「え」とも「あ」とも「なんで?」とも何とも声に出せない。襟は思い切り掴まれて引かれたままで、少し首が苦しい。けれど意識は重なった唇と、ぎゅっと閉じられた傑のまつげに、全部持っていかれてしまっていた。
 どうして今、キスされているんだ。
 戸惑いの合間に唇が一瞬離れ、今度は柔らかく噛まれた。薄い皮膚に歯を立てられる感触に、背中がぞわりと震える。「すぐる」と名前を呼ぼうと口を開けば、舌が割り入ってきた。熱い吐息と舌にねっとりと舐め上げられ、粘膜同士がこすれあえば、どうしたって気持ちが良い。「ふ」と傑の唇の隙間から、艶っぽい息がもれてくる。
 なにがどうなってんの、という思考が、熱に溶かされぼやけていく。あと五分で授業じゃなかったっけ。優等生のオマエがさぼっていいわけ。まあいっか。いいかな、いいだろ、いいんじゃないの、傑が仕掛けてきたんだし。
 好き放題人の口内を荒らす、分厚い舌を食む。
 やられっぱなしは性に合わないと、傑の背中に手を回す。顔を傾けてより深く触れ合おうと舌を差し出した時、急にぐいっと体を引き離された。
 唇の端から溢れた唾液が滴り、ぽたっと落ちる。
「そろそろ戻らないと、授業に遅れる」
 そう言った傑の顔は、やけに満足感に満ちていた。口角まで上がっている始末だ。急に放り出された気分になって「え?」と声が漏れる。ついさっきまで人のことを睨んでいたオマエはなんだったわけ、これで終わり、授業、マジで、通り魔じゃん、呼び出されたけど。
 ぽかっと口を開ける向かいで、傑は唾液に濡れた唇を、手の甲でざっくりと拭うと、さっさと来た道を戻りだした。「いや、おい傑」と声をかけながらも、ついていくしかない。実際授業まで、一分を切っている頃だ。
 ああもう、と後頭部をかき、今し方まで人に好き勝手キスしていたとは思えない、真っ直ぐに伸びた背中を追いかける。
「キスしたいくらい素直に言えねぇの!」