「行かない」
ポケットに手を押し込み、椅子からずり落ちるが如く足を投げだし、一言断る。
「申し訳ありませんが」
「じゃあこいつらも連れてく」
横並びの席に座るクラスメイトの姿を顎で示す。教壇では夜蛾が腕を組んでいるし、左右の席に着く一人と一人は肩をすくめながらも興味深そうにし、教室の入り口でまっすぐ立っている黒服の男にちらちらと視線を送っていた。
「申し訳ありませんが」
もう一度、五条家の方から来たそいつが、同じ言葉を繰り返す。それしか言えないのかよ、と言いたくなるほど規則的な響きをしていた。申し訳ありませんが五条家の仕事ですので悟様に来て頂く他ありませんし、部外者を同行させることもできません。
「私達に一緒に来て欲しいんだって、照れるね硝子」
「五条って本当にお坊ちゃんだったんだな」
「お前らさー」
他人事だと思って。
実際他人事なのだし仕方が無い。これ見よがしなため息を吐いてから、靴のかかとで床を叩く。どっこらせと立ち上がる。二人と一人の視線が追いかけてくる。どれだけごねたところで、決定権を持たないただの使用人であるこいつは帰らない。やけくそよろしく、勢いよく右手をかざす。発言するときは手を上げてだ。
「センセー、早退しまーす」
「気をつけて行ってこい」
「いってらっしゃい悟」
「いってらー」
「おー」そんじゃ、とそのまま手を振って、一足先に歩き出していた使用人の後ろに続く。教室の扉を閉めると、向こうとこちらに分かれる。三人は既に別の話を始めたようだったが、ガラスを挟んで聞こえない。つまんねえの、と考えて首を振る。
いやだいやだ、まるで寂しいみたいではないか。
五条家の仕事自体は半日もかからず、昼には片付いた。だがここから急いで帰ったとしても、今日の授業には間に合わない。一限目が始まろうかという頃に抜け出してきたので、丸一日休んだも同然だ。出席日数がどうとかいう学校でもないけれど。
無意識のうちにため息が漏れる。「学校までお送りします」という無機質な声に促され、車の後部座席に乗り込む。ドアが閉まる。緩やかに発進する。静かなものだった。高専の任務での移動も車だが、このところずっと三人で居て賑やかだったので、タイヤが地面を滑る音だとか、エンジンの唸りだとかが、やけに耳に付く。
そこに小さな電子音が混じった。
ピピピとポケットの中が震える。引っ張り出した携帯電話は、傑からの着信を知らせていた。
「なに、なんかあった?」
気持ち慌てて、通話ボタンを押した。耳に押し当てると「え?」という傑の間抜けな声が聞こえてくる。
「なにもないよ?」
「なんもないのに、電話してきたのかよ」
「そうだけど、もしかしてまだ仕事中だった? 切った方がいいかな」
「もう帰るとこだけど……」
言って、息を肺に留めるように、言葉を止める。「そっか、お疲れ、怪我はない?」という声が、耳のほど近いところから聞こえてくる。電子音に変換された声は、いつもと少し違って聞こえる。「あるわけねえじゃん」と答えて、窓の外に目を向けた。つま先で車のマットをつつく。
「いやね、今昼休みだから、電話をしただけなんだけど」
「あーそんな時間か。って、そんだけ?」
「そうだよ。悟はお昼食べた?」
「ちょっと前に弁当食った」
「いいね。五条家のお弁当って豪華そうだ。幕の内とか?」
「違ぇし、テキトーに知ってる弁当の名前言っただけだろ。傑は」
「今日は蕎麦だよ」
「ジジくさ」
「おい、全国の蕎麦好きと蕎麦打ち職人と蕎麦農家に謝れ」
「多っ」
冗談みたいな言い回しのくせに、声のトーンは真剣に怒るときのように低くておかしい。対面だったら「外に出ろ」とか言い出しそうだ。腹ごなしがてら手合わせするのも面白そうなのに、あいにくここは車の中で、傑は高専に居て、声は電波に乗っているだけ。
一定の速度を保ったまま進む車が、トンネルの中に入る。外が暗くなって、ガラス窓に自分の顔が映り込む。そこにずいぶんと楽しそうに笑う顔があって、驚いた。笑っている自覚もなかったので、はっとして口をつぐむ。プツプツと音声が途切れる。傑が何か言っているのに、雑音に混じって聞き取れない。
トンネルを抜けると「悟聞いてるのか。もう切ろうか?」という声が鮮明に飛び込んできた。「まだ切んないで」と慌てて口にして、また驚く。
「トンネルん中で全然聞こえなかった」
「ああ、なるほど」
「なんか喋ってた?」
「硝子と五条家のお弁当の具について話してたよ」
「うわ興味ねぇー」
「答え知ってるもんね」
くすくすと笑う声が耳を撫でてくすぐったい。その奥から「卵焼きは入ってるだろ」と手堅く正解を狙う硝子の声が聞こえてくる。賭けでもしているのか。それらを覆い隠すように。予鈴が大きく響く鳴る。
「ああ、もうすぐ授業だから切るよ」
「おー」
「それじゃ」
「あ、」待った。と引き留めてしまって、三度驚く。少しの間を置いて「なにかあった?」と傑の声がした。窓ガラスにもたれかかる。閉じた車内にいることがつまらなく思うほど、見上げた空は真っ青に晴れていた。
「電話……、俺からかけてもいい」
今度は、そのうち、暇なときに。
聞くと、携帯電話の向こうから息を吸い込む音が、細く小さく聞こえてきた。
「いいよ」
そういった声は跳ねていた。笑っていると分かる声だ。楽しそう。あはは、と音がしそう。「それじゃ」と傑はまた言って、今度こそ電話が切れた。プツッと音が途切れて、無音になる。
携帯電話を耳から離し、画面に目を向ける。着信履歴を呼び出して、その一番上にある真新しい記録を選んで押す。
呼び出し音はたったの一回で止まって、代わりに今度は大げさな笑い声が吹き込まれてきた。
「早いな!」