アイラブユーなんて言ったことのない人生だ

 
 
 
 
 

 口にするタイミングを逃して、結局一生言わないまま終わってしまった。言っておけば良かったか、などと今更脳裏を過るのは、いよいよ全てが終わったからだろう。後悔先に立たず。後悔というほどのものではないが、一度も無かった事実を振り返れば、もっと軽く口にしてもよかったか、という考えの一つも湧いて出る。
 軽く言えたものか?
 愛ほど歪んだ呪いはないとか言っておいて?
 気づけば両足が地面を踏んでいた。気づいた、ということに驚いて、視線を下げる。視界があった。足がみえる。地面がみえる。コンクリートだ。幽霊に足がないのはやはり創作ではないかと考えて、そもそも幽霊そのものの存在も不確かなのだけれどと、瞬きをする。まぶたがあった。まつげがあった。視界が途切れる。現れる。
 気づく前の自分、死んだ直後から地面の存在を感じる瞬間までの僕は、どこでどうやって、どういう理屈で考え事をしていたのだろう。それとも考え事をしていた自分はまだ、ギリギリ生きていたのか。
 顔を上げる。駅だった。七海がいた。あの眼鏡はしていない。そういう僕も、目隠しもなければサングラスもかけていなかった。視界はクリア。引くほどに澄んでいる。呪力が渦巻いていない、明瞭で写真のような世界。
 目が合うと、七海は小さく頭を下げた。よく見た仕草だ。
「よっ、七海!」
 軽く手を上げてニッと笑う。一歩足を踏み出し、七海の方へ向かう。靴底越しに、地面の感触が伝わる。
 駅だった。すごく長閑で、創作上の世界でしか見たことがない様な、駅だった。周囲には全く何もない。白いコンクリートが光を反射して眩しい。駅舎は無人の様子でこぢんまりとしている。線路は手入れが行き届いていないのか、背の低い草が茂ってそよそよと波打っていた。
 しかし荒れているといった印象はなく、使う誰かの気配を感じる。駅舎と反対側へ視線を向ければ、その先はいやに凪いだ海が広がっていた。波音は聞こえない。生き物の鳴き声も、風の吹く音もだ。静かだ。おかげで自分の足音だけがよく響く。
「行き先の看板とかないの? あの世行きとか、地獄とか天国とかさあ」
 これほど駅らしい風景をしているのに、駅名の看板や、時刻表の類いは見当たらなかった。ここはあの世の入り口だとか、そういう場所ではないのか。あるものだなと感心してしまう。術師にも、この世界にも、あの世はあったのか。走馬灯にしては知らない風景であるし、七海だけがいる理由も分からない。
 七海はわずかに目を細めて答えた。
「地獄を辞めてきたのでは?」
「おっ」
 そんな話を七海にしたことがあったかな。
 と、横に並んで考える。電車を待つ人の立ち位置だ。線路に向かい合って気づくが、乗車位置の表示も無い。
「虎杖君に、そういう話をしたのでしょう」
「なーに、悠仁そんなことまで七海に話したの?」
 一緒に任務に行ってもらったことがあったが、いつそういう話になったのだろう。「地獄なの?」など、悠仁は口にしないタイプかと思ったが。別にいいのだけれど。内緒でもないし。
 肩をすくめる。ふと風が吹いた。タタン、タタン、と聞き馴染みのあるような、ないような、懐かしいような音が遠くから響いてくる。多少クラシックな電車が向かってくる。
「いえ、夏油さんから聞きました」
 七海の言葉に「え?」と返すも、滑り込んできた電車の音に飲み込まれる。無駄に長い車両をくねらせゆったりと停止し、目の前で扉が開く。アナウンスも、発着メロディーも無い。行き先表示も真っ暗だ。
「乗りましょう」
 迷いなく七海が乗り込んでいくので、後に続く。ここに一人残る理由の方がなかった。どこに向かうかは知れないが、七海の落ち着きっぷりを見るに、ここへ来たばかりの僕よりは事情に詳しいはずだ。
 七海そっくりの別人に騙くらかされている、という感じもしなかった。
 二人が乗り込み座席に腰を落ち着けると、ドアが閉まり電車が出発する。乗客は他に誰もいないのに、なんとなくとなりに座ってしまった。とはいえ一人分の空間は空いている。高専保有の車の、後部座席に二人で座ったときの距離感だ。
「で、傑からってなに?」
 知らない間に二人で会ったり話したりしたのかと、視線だけを向ける。車窓の向こうで景色が流れているが、代わり映えはしない。低い草木があって、海がある。建物などはなにもない。
 七海は座席に深く背を預け、眼鏡を直すような仕草をした。その指先が空振りする。小馬鹿にした笑いを漏らせば、じろりと一瞬睨まれる。だがそれも直ぐに緩やかな瞬きに変わった。
「私はなにもあそこに一人でいたわけではないので。少し前まで、あと二人居ました。言っておきますが、理屈は知りません」
「あと二人って、傑と?」
「灰原です」
 明瞭な返答に「ああ」と声を漏らす。納得の人選だ。そう思ったのだが、もう一度きちんと考えると全く理屈が通っておらず不思議になる。あの世の入り口で七海を待っていた灰原は、なんとなく分かる。傑はなんだ。何故三人なのか。
「しばらく三人で、あの駅のベンチで話していました」
「ベンチなんてあった?」
「あったはずですが。消えたかもしれません」
「はあ、そりゃ理屈が分かんないわ」
 出たり消えたりする物があるが、七海はそういう現象として受け止めているらしかった。追求しても多分答えは得られない。
 窓枠に肘をつき、背後を振り向く。こちら側も代わり映えしない。草木と海。海の真ん中に線路があり、そこを走っているようだ。現実には存在しない景色だろう。結局どこへ向かっているのだか。
「つか、僕がすっげー頑張ってる間、のんきに三人で喋ってたわけ? ズルくね?」
 七海が居なくなった後に起きたことといえば、それはもう、それはもう大変だった。人生で一番大変だった。いや、どうだろう。傑がいなくなった直後の秋の方が、気持ちの面では大変だったか。
 先ほどまで傑もあそこに居たのか。振り返って、電車の後方を見る。でも先に行ったのならば、向くべき前方か。で、三人居たのになぜ、七海だけが残っていたのだろう。
 七海が何かを見るように、視線をわずかに上げた。その先を追うと、モニターが目につく。本来なら電車の行き先や到着時間、広告などが流れているはずだが、これも真っ暗だった。
「五条さんのことは、駅にあったモニターで見ていたので知っています。本当に多才というか器用というか、全くやってられませんね。まあ今更ですが」
「マジでどういう理屈?」
「だから、知りませんよ」
 気づいたら駅にモニターがあって、貴方の様子が中継されていたので、三人でベンチに座って観戦していました。
 七海はそう説明した。僕が見た限りモニターなどなかったので、ベンチもろとも消えたのか。使う誰かがいなくなったからかと推理する。
 理解に苦しむが、ここをあの世とするなら、知らない理屈で回っていたっておかしくはない。呪術師をしていて、他の人よりずっと理屈の見える目を持っていたつもりだが、あの世についてはとんと知らなかった。
 ふと、七海の視線に気づく。眼鏡も目隠しも介さずじっと見つめ合うのはいつ振りだろう。一つ、瞬きが挟まる。七海が小さく頭を下げ、上げた。
「お疲れ様でした。今まで貴方に助けられた人の数は知れません。術師も、非術師も」
 なんて突然真面目腐って言われると、さすがに照れくさい。を通り越して少し胡散臭い。けれどお世辞を言っているようにも、裏があるようにも見えなかった。死んだら口が軽くなるとかあるのだろうか。そういう僕も口が軽くなっているらしく、軽く指先を振るとぺらりと言葉が漏れていく。
「何人助けたところでさ、こいつは親友を救えなかったわけよ」
 肩をすくめる。そもそも救われたいなど思っていなかっただろうけど。自分で進める奴。常人よりずっと強いばっかりに、一人でどっか行けちゃう奴。
「その夏油さんですが」と、ぼかした意味も無く七海が名前を口にする。デリカシーって知ってる? と僕が言えたものではない言葉を口にしそうになる。
「貴方がこっちに来ると分かった途端、待っていたことがバレると恥ずかしいからと言って、先に行きました」
「……は?」
「私達は、五条さんが来るのを待っていたんですよ。待っている間に観戦をしていました。なのにいざ来るとなったらあの人、バタバタと慌て出して」
「え、待ってたの?」
「はい。私と灰原は、貴方を待っている夏油さんに付き合っていたようなものですが」
「傑、僕のこと待ってたの?」
「……ひとしきり狼狽した後、キメ顔を作って、それじゃお先に、とか言い残して電車に乗っていきましたよ。灰原は話し相手になるといって着いていきまいた」
 光景を想像して、はて、と首をかしげる。
「じゃあなんで、マジで、七海は一人で残ってたわけ?」
 聞けば七海は足を組み、その上で指を組み、もったいぶったように深々と溜め息を吐いてから答えた。
「義理です」
「本命チョコの言い訳みたい」
「しばきますよ」

「これは死んで分かったことですが、もう死んでいるともなれば、どれだけ騒いだところでどうしようもないので、逆に意外と気楽です」
 静かな電車内で、ふと七海がそんなことを言った。独り言にも似た、実に静かな響きだった。パンが売り切れていたのでおにぎりにしましたが、食べれば美味しいものですよ。とでも言ったのかと疑うほどの気楽さがそこにある。
「そうかもね」
 どうしたって仕方がない。番外編で別時空に飛ばされた漫画の主人公などと違って、元の場所に戻る手段はない。全くないではないが、色々制約はあるし手順も結構大変だ。そこまでして戻らなければという用事も、もう残ってはいなかった。まあまあ頑張ったでしょ、などと人生を顧みる。
 ごとん、と電車がレールの継ぎ目を乗り越えるように揺れた。
「つか、なんで電車?」
 ろくな疑いもなく受け入れていたが、しみじみ思えば変な物だ。電車の歴史は、人間の歴史からしたらずいぶんと浅い。しかし死後は、あの世はもっと昔から存在しているはずだ。
「知りません、何かの共通認識なのでは」
「あぁ、昔は船だったってことか。ここ、三途の川ってことね」
「近しいんじゃないですか。知りませんが」
 このやりとりも、七海としては既出なのかもしれない。三人で居た時にあれやこれやと討論していそうだ。一番古参の灰原の推測を傑が補足して、後から来た七海が疑問を抱いて回答を貰う。そして今、僕に問いかけられる側になった。
「三途の川を渡る船って、船頭居たよね。よし七海、先頭車両に車掌居ないか見に行こうぜ!」
「行きません」
「ビビってんの?」
「ここで待っていますから、お一人でどうぞ」
 すげなく断られ、浮かせた尻を元の位置に戻す。座面がぼふんと沈んだ。待っていてはくれるんだ、と七海の顔を見る。いつも通りの表情に感心して上を見る。空っぽの荷棚があった。
 沈黙が揺られている。
 元々雑談に花を咲かせる関係ではなかった。学生時代、僕達の横にはそれぞれ傑と灰原が居た。四人で居たときはよく喋った。傑と灰原もよく喋っていた。今もありありと思い出せる。記憶はいつも鮮明で眩しいほどに美しい。
「私は生前、灰原の幽霊を見たことがあります」
「……マジ? 幽霊いんのあの世界」
「本人にも確認したので、間違いないと思います。夏油さんのことも見ました」
「は? ズルくない?」
 傑も灰原も独り占めってズルでしょ、と澄ました横顔を指さす。僕だって見たかった。どうだろうか。会いたかっただろうか。そりゃ会いたかったが、幽霊になってまで出てきて欲しかったわけではない。そこはちゃんと安らかに眠ってくれていい。
「てか、駅に居たんじゃないの」
「彼ら曰く、慣れてくると幽霊になって出歩いたり駅に戻ったりを、意外と自由に行き来することが可能だそうですよ」
「今の僕達のこれ、幽霊って状態じゃないんだ」
「知りません。ですが、現世を彷徨っている状態を幽霊と仮定するなら違うだろう、と夏油さんは言っていました」
「あいつ……変に適応力高いんだよな。七海も幽霊やったの?」
「いえ。用がなかったのでやりませんでした」
「てことは、傑はなんか用があって幽霊やったってこと?」
「五条さんのこと見に出掛けた、と言っていましたが? まるで見える様子がないので、ひとしきりからかってから駅に戻ったと言っていました」
「あいつさぁ」
 いよいよ、死んでいるのでどうしようもなく結果気楽なものだ、の説得力が増してくる。七海は七海で「巻き添えでそれを見た私の気持ちも察してください」と疲れた息を吐いた。幽霊の傑は一体なにをしていたというのか。
「……あ、それで僕が悠仁にした地獄の話を知ってたのか」
 幽霊相手ではプライバシーもくそもあったものではない。別に聞かれていてもいいけれど。傑に内緒にしなければならない話などない。人が教師になったことも平然と知っていたし、どうせ「五条悟」の情報など筒抜けだ。下手したら任務関係のスケジュールだとかも把握していた可能性がある。怖い怖い。いいけれど。
「本当はあの世界、呪霊だけじゃなくて幽霊でもごった返してたのかもねー」
「どうでしょうね。死後特に何事もなければ、すぐに電車が来てあの世に向かうそうですよ」
「あのさ、僕だけ知らないこといっぱいあって不公平じゃない?」
「歴の違いですね」
「うっわムカツク」
 確かに僕も、来た電車にすぐに乗り込んだ。とすれば意外と幽霊は少ないのかもしれない。
「じゃあやっぱ、みんなで僕のこと待っててくれたんだ」
「私は義理と付き合いです」
「可愛げねぇー」
「それと、後を任せてしまった手前ですかね。ですがそれももう、必要ないでしょうから」
 声色を変え、ささやくように口にした七海の目は、遠くを見ていた。「そうかもね」と相槌を打つ。海がまぶしく光っている。三途の川だとしたら綺麗なものだ。ゆっくりと瞬きをして、電車の後方に視線を向ける。ま、後はみんなが上手くやるでしょう。
 気づけば七海がこちらを見ていた。目が合うが、すぐにそらされる。七海の瞳は電車の床を見てからゆっくりと上がり、また海へと向いた。なに、と問おうと口を開き掛けてやめる。七海の口元が動いた。
「なにが救いかは、人によるのではないかと思います」
「はは、急にどうした。僕の言ったこと気にしてくれてる?」
 別にいいよ今更、それこそもう死んでいるし。そう返そうと思ったのだが、七海が面倒くさそうに溜め息を吐いたので口にするタイミングを逃した。
「先ほどまで一緒に居たあの人は、穏やかでしたよ。それこそ、ノロケでも言い出しそうで、いささか鬱陶しいほどに」
 まず、何故七海はそんなことをいちいち教えてくれるんだろうな、と考えた。それが義理だろうか。それとも死後だか生前だとかに、何か思うところでもあったのだろうか。
はたまたもう二度と顔を合わせることもないだろうから、最後にぶちまけているだけなのか。それならもっと別のことを言ってもよさそうだ。
 僕が黙って瞬きをしていても、七海は気にしない。独り言なのかもしれない。海は青くどこまでも続いている。車窓からでは、全貌を確認することは出来ない。
「五条さんは、夏油さんがずっと一緒に居たら、この生き方ではありませんでしたよね」という言葉はやはり独り言のような呆れを滲ませていた。「結果多くの人が助けられた気がしますが、一番得をしたのは無関係な第三者、非術師が大半です。たまにムカつきます。まあ、呪術師の存在などそんなものかもしれませんが」
 やっていられるかと言うように七海は足を組み直した。僕のこと気遣ってくれてんの、なんて軽口を挟む隙も見失って七海の演説に耳を傾ける。演説用のマイクを持っていたなら今の今投げ捨てただろうな、という剣幕で、七海がこちらを見た。
「言っておきますが、これは私の意見ではありません」
「なに、未知の存在に操られて喋らされたりしてんの?」
「飲み会の席での結論です」
「そんな話すんなら本人を呼んでよ」
「貴方下戸ですよね」
 下戸でもソフトドリンクで楽しめるというのに。美味しい食事を食べながら、話を聞くだけでもいい。そういう情緒くらい、僕にもあった。
「なにも貴方達がああならずとも良かっただろうと思う人は、居ましたよ。貴方達のことを知る人物なら尚更」
「なんだ、七海も思ってくれてんじゃん」
「これでも一個下という間近で、貴方達の無謀を見せられた世代ですよ」
 どれほど仲が良かったか知っています。
 呆れ混じりの諦め混じり、望郷が滲むような声色だった。そのふるさとの景色には、間違いなく灰原もいる。僕だって、七海がどれだけ灰原の事を好いていたかくらい知っている。一緒に居たのは僕と傑よりも短い時間だったが、灰原は間違いなく七海の人生の中で恐ろしいほどの光を放っていることだろう。
「それでなんで、灰原は傑と電車乗ってっちゃってんの」
 七海のことを置いて。と確認すれば睨まれた。それなら義理など捨てて一緒の電車に乗ってしまえば良かったのに。それが出来ないからこその義理だろうか。七海はしっかりしていた。
 息を深く吐いた七海は「なんの話でしたか」と話題を切り替えて、背筋を伸ばした。だがやはり面倒になったのか、いくらかだらりと背中を預け、顔を逸らすように首を捻り窓の外を覗き込む。
「要約すると、夏油さんはさっきまで確かに貴方のことを待っていましたし、私は貴方という術師を見る度やってらんねぇなと思っていましたが、それでも五条さんのことを同僚だと思っていたということです」
 言って七海が僕を見る。
「お互いあの夏に、一人世界に放り出されましたから」
 そこで唐突に、七海の姿が見えなくなった。
「え、あれ、七海?」と口に出してみるが、返事はない。今の今まで七海が座っていたはずの座面には、わずかなヘコみも見当たらない。元より誰も居なかったかのように、しんとしている。「えぇ」と困惑を口に出して、懐かしい声色が脳内に蘇る。
「言い逃げかよ」
 タタンタタンと電車が進む音だけが大きく耳に届く。車体はがたごとと、ゆりかごのように揺れている。最後に七海が振り返った景色に目を向ける。別段何があるわけでも無かった。代わり映えのない、草木と海の色があるだけだ。
 投げ出していた足を引き寄せる。
 七海は先にここに来ていた分、なにかを思う時間があったのだろうか。全く知らない話しか聞かなかった。いっそ別人を疑うところだが、あれが本人ではないとも思えなかった。
 そしてこの電車はどこへ行くのだろう。七海もどこへ消えたのか。ぼうっと窓の外を見ていれば、不意に海以外の物が遠くに見えた。大きな白い影。見覚えがある。
駅だった。この電車に乗ってきた駅と、全く同じ見た目をしている。元の場所に戻ったのかと疑うが、どうにも違う。別の人影が、駅のベンチに黒々と腰掛けていた。
 電車が静かに減速していく。慣性を感じながら、腰を浮かせる。ドアに近づき停車を待つ。ホームに滑り込み、ブレーキの音を響かせながら動きが止まり、ドアが開く。足を大きく踏み出して、駅に降り立つ。

 ベンチに座る傑が、こちらを見ていた。

 目がまん丸だ。どうしてそんなに驚いているのだか。「はは」とからっとした笑いが漏れる。すぐる、と呼びかけようとして、閃く。
片手を大きく上げ、腹からありったけの声を出して叫んだ。
「傑! 愛してるよ!」
 目だけでなく、口までぽかっと大きく開けた傑の顔が可笑しい。悠々と歩き出せば、その大きな口が大きく息を吸い込んで、こちらに負けず劣らずの大声を駅舎に反響させた。
「急だな!」
「はは! なんかさ、一回も言わずに死んだなーって思って」
 だったら今言っておくかと思っただけ。死んでしまえば呪いもくそもないだろう。もう何が残っているのか怪しいくらいだ。
 そう手を振れば、傑は額を押さえてしまった。そのやりとりの最中、背後で電車のドアが閉まった。「あ、」と振り向いたときには、もう走り出している。ということはここが俺達の終点なのか。その割には何もない。乗ってきた駅と全く同じに見える。
 傑の直ぐそばまで歩いて、笑って、ベンチのとなりに腰を下ろす。デカイ男二人が座ると少し狭かった。それもこれも傑が袈裟なんか着ているからではないか。
「で、傑はここで何してんの?」
 灰原と一緒に行ったはずではと、となりの顔を覗き込む。久しぶりにこれほど近くで見た。昔はいつだってこれくらい近くに居たし、あの日々はそれを特別だと感じさせなかった。
「電車が止まったから降りたんだよ。灰原も急に居なくなってしまったしね」
「そんじゃ俺と一緒だ。七海も急に消えたんだよね」
「へえ、ならあっちはあっちで合流したのかもね」
「こっちも合流したし?」
 けろりと笑えば肩をすくめられた。ただその横顔は笑っているので、七海の言っていた話も大概真実なのかもしれない。ノロケでも言い出しそうな顔には見えないが。
「待っててくれたんだ」
 どっか行っちゃわないで、ここで。
そう聞くと、傑はあご先で改札を示した。今の今まで気づいていなかったが、確かにそこに改札があった。あの世の無人駅に似つかわしくない、ICカードでタッチできるタイプだ。ポケットを叩く。切符なんて持っていない。「三文だっけ」と傑に確認すると「船ならそうだったかもね」と返ってくる。
「というか出られないんだよ。だからここに座っていただけさ」
「なんで?」
「試せば分かるよ」
「教えてくんないの」
「説明しづらいんだ」
 ほら行け、と背中を叩かれ、押し出されるように立ち上がる。背中に残る感触にじんわりと思いを寄せながら、ふらっと改札へ近づく。切符が無いなら出られない、なんてことはないだろう。進行を妨げているゲートはせいぜい腰の高さなので、跨ぐなり壊すなりしてしまえばいい。
 だが改札の前に立ったことで「出られない」を漠然と理解する。これは確かに出られないし、説明しづらい。改札はある。だがその向こうへ行こうという気が起きない。まるで壁に向かい合っているような、変な感覚だ。この向こうは無いのだから、行くことはできない。そんな感じがする。
 それでもしばし周囲をうろつき観察したが、これといった発見はなし。Uターンして「マジだわ」と傑の元へ戻る。
「どうすんのこれ」
「さあ、どうだろう」
「俺より先にここに居たんじゃないの?」
「私も大抵のことは灰原から聞いたんだよね」
「まじ? 灰原何者?」
「本人は、幽霊歴が長いからだと胸を張っていたね。その灰原自身も、別の人から聞いたらしいよ」
「数珠つなぎじゃん」
 そういう俺と七海は、誰にも何も残さず電車に乗り込んでしまった。この世の駅の仕組みを口伝する仕組みも途絶えてしまったのだろうか。腰を落ち着け腕を込む。傑は「別の駅もあるそうだから、なにかしら上手く回っているんじゃないか。大抵の人はそもそも待たずに電車に乗り込むそうだし」と言った。「そんなに直ぐ電車くんの?」と聞けば「山手線並みの早さだそうだ」と実に嘘くさい答えを口にした。
 さてどうしようかと考えるが、まあいいかという結論も即座に浮かび上がる。急ぐ用事もなし。となりには傑もいる。
「腕相撲でもする?」と聞くと「純粋な力比べで私に勝つ気か」と意外にも乗り気でいながら、さりげなく呪力操作を禁じてきて面白い。さて肉体もない今、呪力操作は可能なものか。「テーブルがないからやっぱ指相撲にしよっか」と周囲を見渡していると、遠くに電車の影が見えた。傑もそれに気づく。
「山手線よりは遅かったようだね」
「はは! まだ道半ばってか」
 通りで外へ出られないわけだ。減速しながら近づいてくる電車を目で追い、ベンチから立ち上がる。傑の視線が俺の背中を見上げてくる。肩越しに振り返り、何を考えているのかいまいち分からない、きょとんとした顔に笑いかける。
「ほら、行こうぜ!」
 ぷしゅっと開いたドアから電車に乗り込み、シートに腰掛ける。ほんの少し間を置いて傑も続いてきた。二人を乗せるとドアが閉まり、電車はまた走り出す。今回もアナウンスの一つもなかった。
 周囲を見回した傑が「やはり誰も居ないね」と呟いて、それから俺のとなりに落ち着く。
 広いシートに、狭いベンチと同じ距離感で並んでいる。それがどうにも嬉しくて、勝手に笑いが漏れる。奇妙な物を見るように目を細めた傑の表情には見覚えがある。懐かしくすらあった。溜め息交じりに肩をすくめ、傑がこちらを一瞥する。
「さっきの、返事は必要ないのか」
「返事?」
 行こうぜに対してなら、傑はこうして横に座っていることが答えだろう。なんだっけと首をかしげる。会話の全てを巻き戻すように反芻していく。全部に答えがあったはずだ。待っていてくれたんだに対しての回答は微妙だが、出られないからというはぐらかしも、七海の証言と照らし合わせれば納得がいく。反対側に首を傾ける。
 パチッと指を鳴らす。
「あー。言いたくなっただし。考えてなかった」
 そもそも、愛しているよ、の返事は貰う必要があるものなのか。
 どちらかといえば報告書のようなものなので、せいぜい受領印が押されるかどうかといったところだろう。傑は、全く呆れたという顔をしていた。どうしてオマエの方が呆れているのだか。
 片手を持ち上げ、膝の上に置かれた傑の手を握る。「なんだ」と問われるだけで、振りほどかれる事はなかった。自分の方へと引き寄せて、その手を覗き込む。
「七海は急に消えたから、傑はどっかいかないようにってね」
 もう片手で掌を撫でると、くすぐったかったのか指先がぴくりと動いた。だがやはりそれだけ。武器を握り慣れた手は皮膚のあちこちが固くなっている。対照的に俺の手はつるっとしていた。得意武器などろくにないから当然か。ペンだこの一つもない。
 観察を終えて、するりと指を絡ませるように握り込むと、二人の間に置いた。手は温かい。温度があった。柔らかにそっと手を握り返される、その密かな仕草がくすぐったい。
 不思議と、眠くなってくる。
「お疲れ、悟」
「……それ、七海にも言われたんだよね。俺って疲れてみえる?」
「ふふ、後から来た人が言われる宿命さ」
「あーそうかも」
 そういう傑は、灰原に言われたのだろう。お疲れ様です夏油さん、と屈託なく笑う顔が思い浮かぶ。
「……悟。せっかく変えた一人称が元に戻ってるじゃないか」
「いいでしょ、傑は年下でも目上でもないし」
 怖がりもしないし礼儀作法が必要な間柄でもない。
言って笑って傑を見れば、不思議そうに瞬きを繰り返していた。しばし考えた末、漸く思い至ったらしい。
「あんな昔に言ったこと、まだ覚えていたのか」
「そういう傑だって覚えてんじゃん」
「そういえば程度だよ」
 それが真実なのか照れ隠しなのかを確かめようと視線を動かす。握り合った指先から、傑の顔へ瞳を持ち上げる。傑は意外にもこちらを見ていた。黒い瞳が俺を映して瞬きを繰り返す。どういう表情なのだか、それ。笑っているようにも困っているようにも、面白がっているようにも見える。
 その鼻先に噛みついたらびっくりするんだろうな。なんてふと考えるが、実行はしない。ゆるりと座席にもたれかかった俺と違い、傑はすっと背を伸ばしていた。それがわずかな身長差を埋めて、視線の高さを合わせている。もっと近くで覗き込んだら、その瞳に自分の姿が映り込んでいる様が見えるだろうか。
「ずっと覚えてたよ。傑の言ったこと、ぜーんぶ」
「全部は言い過ぎだろ」
「いいかい悟」
「待て、言われたところで私は自分の発言を一言一句覚えていやしないからな」
「ふは」
「悟が嘘を吐いているのかも、判断しきれない。レフェリーを呼べ」
「あはは!」
 真面目くさった顔をして問答をしていたが、ついに堪えきれず大きく吹き出した。その顔が、黒い瞳に一瞬反射して見えたような気がする。気のせいかもしれない。
 ゴウッと音を立て、電車が暗闇に包まれた。そこで初めて、車内を照らす蛍光灯の色に気づく。トンネルに入ったのか。この電車はこれでもどこかへ向け、きちんと前へ進んでいたのか。
 絡めた指先がぴくりと動く。離すまいと握りしめれば「くく」と喉を鳴らして笑う。アイラブユーなんて言ったことがない。言うとしたら相手はオマエだけだし、そのオマエは言える距離にさっぱり居なかった。
 やはり眠いかもしれない。あくびが漏れる。
「ここで眠るとどうなんの」
「さあ」
「俺より随分先にいたくせに、寝てないのかよ」
「どうかな」
「意地悪ぃ」
 走行音が狭い空間に反響している。トンネルを抜けた先はどこだろう。また同じ景色なのか、ついにどこかへ辿り着くのか。
 あくびでじわりと滲んだ涙を散らすように、瞬きを繰り返す。目を閉じて眠って、今度こそ目を覚まさなかったとしても、それはそれでいい。だが再び目を開けて、そこに誰も居なかったらと想像すると眠る気は失せる。
 傑が半ばぶつかるような気軽さで、肩を寄せてきた。
「ほら、肩を貸してやるから少し寝な」
「えー」
「眉間に皺が寄ってる。眠いのを我慢しているだろ」
 つないでいない方の手で、眉間を指さされる。ぐりぐりと押され「う」と呻く。頭を振ってその手を振りほどき、それから傑の肩に頭を預ける。寝やすくないどころか心地は悪い。けれど懐かしかった。昔にもこうしてもらったことがある。逆にしてあげたこともだ。
小さく笑いが漏れる。ぎゅっと手を握る。同じだけ握り返されると、少し痛くて色気もなにもない。
「死んだ後くらい、一緒に居てよ」
 もう今更だ、死んでいるのでどうともしがたい、いっそ気楽なものだというのなら、そこにいてほしかった。
これくらい言ったって良くないか。何せもう死んでしまったのだし。人生も終わって、おまけみたいな今くらい、我が儘を口にしたっていいだろう。
「ちょっと寝るわ」と口にして、まぶたを降ろす。世界が暗くなる。なんの色も気配も見えず静かなものだ。穏やかだ。
死後の世界って案外何もないくせに、全てが今となりにある。贅沢かも、まあ結構頑張ったしちょっとくらいいいよねと、うとうとと、緩やかに、記憶が、意識が、繰り返す瞬きのように、途切れていく。
 となりの傑が、ひっそりと囁くように呟いた。
「私もね、親友だと思っていたよ」
 その言葉は子守歌のように心地よくて、笑ってしまいそうになる。手が温かい、触れた肩も温かい。ずっとここに居たかったんだよな本当は、なんて懐かしさに身を委ねる。
 まあこれでよかったんじゃないの。ああなってこうなって、歩いて行った先で俺達はこうして並んでいる。
頬に触れる髪の感触がくすぐったい。もぞもぞと動く音がする。ふっと、耳の先に息が掛かった。
「でもね、愛してるよは先に菜々子と美々子に言ってしまったんだ、ごめんね」
 その言葉にパッと目を開け、顔を上げる。
 まさか俺がまだ起きていると思っていなかったのか、傑は目を見開いて、驚いていた。
「ずっるい奴!」
 大声で叫んで、歯を見せるように笑う。
別にいいけどね!