背後から、冷気が吹き抜ける。
撫でると言っては生ぬるい、叩きつけるような寒さだ。音を立てるほどに凍てついた空気が、突風のように襲い、そして静かに留まる。わずかにさらした素肌を隠すように、首をすくめ、襟に顔をうずめる。
口元に笑みが滲んだ。
振り返らなくても分かる。爆豪の背の向こうに、凍り付いた世界が見える。冷気に覆われた景色が、聳え立つ氷柱が。瞼の裏に焼き付くほど、よく見た光景が。
それが撤退完了の合図だった。
「ハッ!」と息が漏れる。
ここで持ち堪えることが出来れば、こちらの勝ちだ。あとはただ、ひたすらに持久戦。姿勢を低く構え、バチッと手の中で鈍く、爆破の音を響かせる。
「死にてェヤツからかかって来い!」
咆哮すると、冷気にひるんでいたヴィラン共が我に返った。雪崩れるようにと動き出し、爆豪に向かってくる。正面切って突っ込んできたヴィランを爆破でのし、崩れ落ちる寸前で掴み、群れの中に叩き返す。これでまとめて五人吹き飛んだ。「巻き添え食うほど密集してんなバァカ!」と煽りを加え、後続のヴィランに爆破を見舞う。避けるふりをして誘い、膝をみぞおちに叩きこんで蹴り転がし、つまずいたヴィランに踵を落とす。
あいにく、この場の全員に爆破をお見舞いできるほどの余力はなかった。
目の前にはヴィランの群れ。後ろには誰も通せない。
撤退完了と同時に、退路は氷で塞がれたはずだ。爆豪の背後は行き止まり。仮に通したところで、その先へ進むには時間がかかるだろう。だが、そんな妥協を許せるか。
この場から後ろへは、誰も通さない。それが爆豪にとっての完全勝利だ。
重い羽音に視線を上げると、鳥人間姿のヴィランが見えた。近場のヴィランの首根っこを捕まえ、片足を軸に大きく振り回し、爆破の推進力を加えて投げつける。「ギャッ」という短い悲鳴を上げ、鳥人間が地面に落ちた。
この大振りの動作を隙と見たのか、一斉にヴィランが襲い来る。瞬間空中へ飛び上がり交わし、密集したヴィランに爆破を見舞う。
景色がゆっくり、はっきりと目に映っていた。
死ぬかもしれない、と思ったことは、何度かある。それこそ、学生のときから。今まで生き伸びてきたのは、実力と運と半々か。全てが完璧だったとは思わない。もっと上手くやれたはずだと思い返すこともあった。
記憶がちかちかと脳裏をかすめていく。今もまた「死ぬかもしれない」と感じていた。
長時間酷使した体の、あちこちが軋み始めている。ヒーロースーツの損傷も増えていた。破けた隙間から、冷気が入り込む。吐いた息が白く煙る。
冬を思い出す。雪が降っていた日だ。炭酸の弾ける音が耳の奥から蘇る。爆豪、と呼ぶ声、こちらを見る色違いの視線。
小規模な爆破をヴィランの顔面に叩きこむ。顔を爆風に煽られてもなお向かってくるほど、気合いの入ったやつはここにいないらしい。数は多く、爆破すれども、投げ飛ばせども、蹴り転がせども湧いてくるが、一人一人はそう強くない。だが一般人ほど弱くもなく、やり辛い。全員沈めるのと、爆豪の手足が動かなくなるのと、どちらが早いか分からない。死ぬかもしれない。派手に散るわけではなく、静かに吹き消えるように、ここで終わるのかもしれない。
元より頭数の足らない作戦だ。
見計らったように人手はなく、しかし事態は一刻を争うほど逼迫し、ブリーフィング時には「通夜かよ」と鼻で笑ってしまったほどだった。
この町の「ヴィランではない」住人の救助、安全圏への避難誘導、それらを終えるまでのヴィランの足止め。勝ち目の薄い、それこそ出発前から殉職者がでるかもしれないと予期するほどの作戦だった。
だがそれは、ヒーローが止まる理由足り得ない。爆豪がここに立っているのは、集まったヒーローの個性から、最適な配役を行った結果というだけだ。
これが一番、住人の生存率が高い。
死が過った瞬間から、研ぎ澄まされた感覚の合間に、頭の中で様々な記憶が浮かんでは消え流れている。走馬灯じゃねェんだぞ、と舌打ちをしたいような、妙に懐かしいような、変な感覚だ。心配なだけかもしれない。心配をするほど軟な奴ではないのだが。
轟。
首筋をふっと、知った熱風が撫でた。
とっさに姿勢を低くし、地面に手をつく。一番低く、それでいてすぐ次の行動に移れる姿勢を取った瞬間、頭上を熱波が吹き抜けた。
鈍いヴィラン共の悲鳴と、風の吹き抜ける轟音が通り過ぎる。ぱっと体を起こし、飛ばされず粘っていたヴィラン数人を、爆破で追撃し弾く。爆豪の目の前に、数多の足跡が残るだけの空間が出来ていた。
「持ち場!」
振り返らず、背後に迫っていた男に怒声を放ち、それから深く息を吸い込む。ふっと吐き出し、背筋を伸ばす。視線の少し先で、膨冷熱波に吹き飛ばされたヴィラン共が体勢を立て直すべくもがいている。ああいうところは、素人くさい。
「ちげぇ。退避ルートに隠し通路があって、ヴィランが飛び出してきたから、とっさに出口をふさいだら、こっち側に居たってだけだ」
弁明するような、開き直ったような口調が次第に近づいてきて、ついに視界の端に入った。赤い色。炎の揺らめく影。寒いからってそっちに立ちやがったなと、睨みたいほどだったが、実際、熱いほどに暖かかった。
救助避難チームのしんがりを務めていたはずの轟が、そこに居る。
「テメェは撤退完了の合図並みにクソデカイ氷出したんか」
「間違えたみたいに言うなよ、兼ねただけだ。撤退完了ポイントまであとちょっとだったからな」
「逃げれたんか」
「おう、問題ねえ。隠し通路の奴以外は、ヴィランも追ってこなかったし。ここまでの間にも一人も居なかったぞ」
「当たり前だろうが、誰も通してねぇ」
「すげぇな」
舐めるな、と鼻で笑う。
そこで初めて、お互いの顔を見た。視線が一瞬絡み、すぐにほどける。
「爆豪結構ボロボロだな」
「そういうテメェもな」
「さすがに戦いっぱなしだからな」
白い息を吐いた轟も、途中までは足止め役だった。ある程度時間を稼いだ後、避難チームに合流していった。その時「もう二度とその面を見ることはないのかもしれない」と思ったところだったというのに。
しかし再び見られたからと言って、結果が変わらない可能性もある。視線の向こうで、ヴィランが態勢を整え直していた。それぞれ突っ込んでこないところを見るに、扇動している奴が居るようだ。奥で何か叫んでいる奴か。そいつが首謀者かもしれない。
「……何笑ってんだ」
眉を持ち上げ、視界の端に映る轟の、緩んだ口元を指摘する。
「いやな、さすがに、ヤベェかもなって。ここの住人、何人だっけ」
「知るかよ」
本当は覚えているが、数えることも嫌になる。町に入り込んだヴィランの口車に乗せられ、立派なヴィランになった奴らの数など知りたくもない。今回救出した数十人以外の住民すべてがヴィランだ。「異能解放軍に似ている」とその手の事件に詳しい奴が言っていた。そいつは今住民を連れて避難している。
「あんま民間人を痛めつけたらいけねェよな」
「あいつらもう全員ヴィランだろうが」
「ま、そうだな」
民間人とヴィランの境目とはどこにあるのか。
少なくとも目の前のやつらは既にヴィランだ。大規模テロを起こす前にここで食い止めなければならない。その情報を持ち込んだ「民間人」に危害が及ばないように逃がす。それが今日の仕事だ。完全勝利の条件は、住民全員の避難完了、そして、目の前にいるヴィランすべてをぶちのめすことだ。
隊列を組み走りだしたヴィランを、轟の氷が分断する。出鼻をくじかれ足並みが崩れたところを爆豪が蹴散らす。合間をすり抜け轟の元へたどり着いたヴィランが、逆に掴み上げられていた。振りかぶった轟に投げられたヴィランは、弧を描き群れの奥へと落下する。ギャーギャーとわめく声が聞こえるので、さすがに降ってきた仲間を無下にできないようだ。爆破の勢いを加え同じように後方へ放り続ければ、掴まれないようヴィランが警戒しはじめる。そこで二の足を踏んだやつから叩きつける。
大技が得意な轟が、最小限の動きでヴィランを倒していた。大雑把と笑った昔が、嘘のように。そうでなくとも、既に大技を連発するほどの気力は残っていないだろう。未だ背後から吹き込み続ける冷気の根源に、相当な体力を割いたはずだ。時折大きく息を吸い込み、肺が膨らむ。それが見える。
吐き出される息が白く煙る。それはヴィランも同じだ。轟の生み出した巨大な氷は避難する民間人を守る壁になるだけでなく、寒さでヴィランの動きを鈍らせていた。見越して爆豪は冬用のスーツで来ている。轟は寒さをものともしない。寒さが優位に働く。それでも、どこまで持つか分からない。
ヒーローだから、死ぬのも、死なれるのも、覚悟している。ジジィになるまでお互い生きている保証はない。明日居なくなるかもしれない。それでもヒーローという生き方を選び、ヒーローとして進み続ける、となりの男を愛していた。
「いざってなると、やっぱ色々頭よぎるな」
轟が言う。掴まれた左腕を払うように炎を吹きあがらせ、そのままヴィランを殴りつけた、轟が言った。触れられるほどの距離に詰められ始めている事実はぬぐえない。爆豪とて既にマスクは破れ、どこかへ落としてしまった後だった。
同じことを考えていた。そう感じる場面は、これまでにも度々あった。一緒に出掛けた帰りに「楽しかったな」と言われた時や、同じ飯を食べて「美味いな」と言われた時。図星を点かれた感覚にも近かった。そういう時は、居た堪れない気分になるか、気恥ずかしくなることが多かったが、今はただ「なんだ」と思っていた。
なんだ、お前も同じか。
相変わらず轟の口元は笑っている。ピンチのときこそ笑って見せろ。それとも少し違うだろうか。動く度、周囲の温度が上がり、下がり、風が吹く。爆風がそれを遮り、煽られた轟がくすぐったげに「はっ」と笑って、一度、爆豪を見た。
「爆豪とここで死ぬのは、悪くねェな」
同意しそうになった言葉を鼻で笑い「舐めてンじゃねぇぞ」と両手を構える。素早く轟が目をつむると同時に、閃光を弾けさせた。お互い、相手がなにをできるか知っている。なにをしようとしているのか分かる。境目すら曖昧になっていくような、そんな錯覚を起こしそうになる。
かすみ始めた境目が、自我を持って「でも」と反論してきた。
「最後に見るのが爆豪なら、良くねえか。前に爆豪がいない現場で死にそうになったとき、最後に顔くらいみてぇなって思ったし」
「認めてンじゃねェ」死にそうなことを。
だが口にした言葉のわりに、泰然としているのがこの男の強みだろう。すべて向き合い乗り越えられる男だ。カッコイイやつだと思う。本人の前で言ったことはないが。逆に轟はよく平然と口にする。
すぐ側で、見た目だけの炎が吹き上がる。粗末な威力のくしゃみのような炎でも、それを知らないヴィランはかわして体勢を崩す。そこに追撃を加え、場外へと弾き飛ばす。
目に映る景色がはっきりと流れていく中、轟がどう動こうとしているか分かる。分かるが、さすがになにを考えているんだこいつは、というタイミングで膨冷熱波が放たれた。押し寄せていたヴィランが弧を描いて吹っ飛ぶ。二人の目の前には再び、踏み荒らされた地面がステージのごとく姿を現していた。
一度押し返し状況をリセットするつもりか。そこまで酷い状況ではなかったはずだと轟と足並みをそろえて立ち止まったとき、ぐっと襟を引かれた。
視線がヴィランから外れて轟にぶつかる。焼けるように熱い唇に触れていた。
「……、火傷さすつもりか」
「悪ィ、最後かもって思ったら、惜しくなった」
「体温高ェ、調整しろ。俺じゃなかったら唇の皮でろでろになってンぞ」
「はは、じゃあいいな」
よくねえわ、の言葉の代わりに、盛大なため息と、笑い声がもれた。地面を踏みしめ、三度向かってくるヴィランに向き直る。爆破を繰り返した腕がきしんでいる。あと何人だ。ヴィランと化したこの町の住人は、何人残っている。
死ぬかもしれない。だがまだ死んでいられない。最低でも、民間人の避難完了まで。次点で増援到着まで。最良で、制圧完了まで。
ヴィランの背を踏み台に飛び上がり、細かく鋭い爆破を弾丸のように撃ちつける。行動不能まで追い込めなかった奴を、轟が拳で黙らせ「爆豪の個性ってきれいだよな」と、あの世に踏み込みかけたみたいなことを口にした。
「花火みたいだ」
脳内を巡っていたはずの回想は、すっかり鳴りを潜めていた。今はただ戦場のど真ん中で凪いでいて、ヴィランの動きを、轟の一挙手一投足を、言葉を、ひとつひとつはっきりと受け取っている。あいつ、アバラ痛めてんなだとか、体温調節のバランスが崩れ始めているなだとか。反対に、轟にも爆豪の状態が筒抜けになっているのだろうか。
惜しくなった。という言葉が蘇る。
「轟!」と呼ぶ。
応えるようにヴィランを氷で弾き、時間を作った轟がこちらを見上げる。まだ浮かび上がったまま空に居た。様々な思考がすべて一瞬のうちに過ぎ去っている。時間は味方をするように、ゆっくりだ。
「好きだ」
言えば、おかしそうに気の抜けた笑みが返ってきた。
しってる、ありがとう、俺もだ。
死ぬかもしれない。死んでもいいと思ったことはない。だが今日は死ぬにはマシな日だろう。決して華々しくはなく、吹き消えるように終わっていく。だがそこに轟がいる。
今日ここでお前と死ぬのは悪くない。
それでもお前を死なせたくねェ。
◇
処置を終えロビーへ降りると、既に轟の姿があった。
受付待ちのソファの中に、見知っためでたい頭が座っている。「とどろき」と声を掛けると、轟が体全体で振り返った。爆豪の姿を見つけると表情を緩め、膝に手をつきゆっくりと立ち上がる。そのあとはしっかりとした足取りで、こちらへ向かって来た。
となりに並んだところで足並みを揃えて歩き出し、正面入り口から病院を出る。
「爆豪のほうが時間かかってたな、どうだった?」
「数針縫われた」
「ああ、腕ざっくりいってたところか」
「そっちは」
「アバラがちょっと折れてたから、コルセットはめられた。動きにくいなこれ」
「やっぱ折れとったんか」
「分かってたのか?」
「舐めんな」
外では陽が傾き、足元の影が長く伸び折り重なっていた。ふと子どもの笑い声が聞こえ、顔を上げる。兄弟らしき小さい影が追いかけっこをしながら向かってきていた。避けると後ろから来た父親が「すみません」と会釈をして通り過ぎる。こらちゃんと前を見て、騒いじゃだめだよ病院なんだから、と背後で声が遠ざかっていく。
となりでは轟があくびをこぼしていた。つられそうになって飲み込む。病院に搬送されている間に寝落ち、処置を終えたところで目を覚ましたが、十分寝たとは言い難い。節々が軋むような疲労も抜けていなかった。
ただ、入院もせず帰される程度に、元気だった。
死にそびれた、という言葉がよぎるが、適切ではない。死にたかったわけではない。死ぬかもしれないと思っただけだ。あちこち怪我をしていても、タクシーを回してもらい忘れる程度には、五体満足に生きていた。
かすかに火傷した唇が痛い。まあ、そんなもんか。
「今日はメシ作るのだるいよな」
「だな。デリバリーすっか」
「そうだ、それならあそこ、家の近所にある弁当屋の弁当、久々に食いてぇな」
「……あー、あっこか。この時間なら、まだなんかあるな」
「夜だと売り切れて閉まってるもんな。前食って美味かったし、エビチリ食いてぇ」
「蕎麦じゃねえんか」
「あそこ、蕎麦ないだろ」
蕎麦のデリバリーか、と考えを改めかける男を「弁当食うんだろ」と肘で小突く。縫われた場所は肩なので、肘は無事だ。動かすと多少痛むが、入院するほどの怪我に比べたら些末なものだ。
通りに出て、運よく捕まったタクシーに二人で乗り込む。調べた住所を伝え、弁当屋に向かってもらった。車の静かな揺れを感じながら、窓の外を見る。見慣れた街並みがさらさらと流れていく。
くあ、とあくびを噛み殺す。弁当はなににしようか。なにが余っているかによるか。食べたら今日はさっさと寝てしまおう。二人とも明後日まで休みを取りつけているから、起きたら家事を分担してこなし、そのあとで買い物に行くか。たしか醤油が残り少なかったはずだ。轟もいるし、ついでに米も買うか。
ぽろぽろと考えごとをつなげていると、座面に乗せた手に触れるものがあった。つつくように小指に触れられている。視線を外から車内へ、轟へ向ける。素知らぬ顔をして小指を絡める姿がおかしくて、手のひらを上に向けてやった。
無言のまま目が合う。轟はすぐに視線を外し、爆豪の手のひらへと落とした。手を握りたいのかと思ったがどうも違うらしく、指先で撫でられる。なにかと思えば生命線を辿っていた。手首まで来たところでくすぐったさに耐えかねて、ぐわと掴み、ぽいと放る。小さな笑い声が聞こえた。あとは二人とも緩やかに瞬きをくり返し、目的地到着を待った。その合間、一度轟へと視線を向ける。眠たそうにうとうととまぶたを持ち上げる横顔が見えた。
愛だの恋だの、そういうものの力をまるで信じていなかったが、あるのかもしれない、と今となっては思ってしまう。こいつが生きていてよかった。
あくびをする間抜け面を眺めて思うとは手遅れだ。もうずっと前から、そうなのだが。
タクシーを降りて目的の店に入り、二つ弁当を買い、ビニール袋に入れてもらった。これを爆豪が持ち、徒歩で緩やかな帰路につく。二人で住む家まではもう少しだ。
「今日、一緒に風呂入りてぇな」
「こっちは縫ってンだよ。テメェもアバラ折れてる」
「入れねェのか? 防水の貼られただろ」
それは貼られた。あの病院はヒーロー向けの設備も多く、処置後すぐ現場に戻れるようにしてくれと、無茶を言われることにも慣れている。当然風呂くらい問題ないし、轟のアバラとて激しい運動をしなければ気にするほどでもないのだろう。折れたまましばらく激しい運動を続けていた後ですらある。
「せっかくデケェ風呂のある部屋にしたんだから、いいじゃねえか、一緒に入っても」
食い下がる轟を、鼻で笑う。
「その心は」
「セックスは無理だが、ちょっとくらいくっつきてぇ」
「ハッ」
淡白に見えて意外とそういう触れ合いを好む可愛げは、いっそ暴力的なくらいだ。
縫っていなくてもアバラが折れていなくても、この疲労ではベッドに横になった瞬間眠ってしまいかねない。どうせ風呂に入るならそこで少しくっつきたい、というのは妥当なラインか。
「半身浴でちょっとだけだからな」
「それ、逆にドキドキしねぇか?」
「意味が分からねェ」
だいたい勃たねぇわ、とあしらえば「俺もそんな気がする」と言う。死の淵に近づき生存本能がどうとかをすっかり越え、ただ気が抜けていた。今襲われたら危ないかもしれない。それでも勝つが。
「貰い物の入浴剤あったよな。どれか入れよう」
「好きなやつ入れとけ」
「風呂溜めてる間に弁当食っちまうか? なんか腹減ってきたし」
「あー、そうすっか」
「弁当一個じゃ足りねぇかも」
「テメェ本当にいつでも食うよな」
「蕎麦ゆでてもいいか?」
「風呂入った後、まだ食う元気あったらな」
「それは、寝ちまうな」
眠った後、明日の朝はなにを食べようか。冷蔵庫になにを入れていたか。あまり良く思い出せない。どうせ遅くまで寝ているだろうし、いっそ食いに行くか。さすがに一晩寝ればある程度回復する。掃除洗濯の前に出かけるなら、買い物を先に済ませるか。
モーニングの美味い店と考えている間に家に着く。手ぶらの轟がカギを開け、ドアを引いた。
「ただいま」と荷物持ちの特権で先に中に入る。
一歩遅れて轟も「ただいま」と続いた。「一日しか経ってねぇのに、帰ってきたって感じがす」るな、と続く言葉を待つ前に、振り向いて轟の襟首を引いた。
触れた唇の、うっすら火傷した部分がピリッと痛む。
唇を離した時、轟は目を丸くしていた。戦場のど真ん中で急にキスをしてきたときは、あれほど澄ましたツラをしていたくせに。
「なァにが最後だバァカ!」
言えば轟はぐっと言葉をのみ、それからぱっと耳の先を染めた。
「爆豪だって、そういう空気出してただろ」
「出してねェわ」
「急に好きだとか言いだしたろ」
「そんくらい普通に言うわ」
「じゃあ今もう一回言ってくれ」
むくれる轟を鼻で笑い、靴を脱ぐ。確かにあまり言葉にする方ではない。好きだと言ったのも、これまでに何回あったか。今更言葉にしないと留められないような形の関係でもない。これからも変わらず一緒に暮らし、生きて、いつかヒーローとして死ぬか、揃ってジジィになり引退するかだ。互いにそういう相手として選んでいた。
「別にいいけどな」
靴を脱ぐ轟を振り返る。「轟」と呼べば、視線が上がる。
なんだ、と問いかけてくる視線を真正面から見返した。
「好きだ」
「……ズリィだろ、それ」
ここ一番の間抜け面に勝ち誇った笑みを向けたあと、浴室に入り蛇口をひねった。