空色の目

(綾主の目について捏造)

「深月くん、前髪鬱陶しくないの?」
 向かいの席に腰掛けていた綾時は難しい顔をしながらそう問い掛けてきた。
 手には数学の参考書、肘の下にはノートが敷かれたままだ。
「……そこの問題、解けたのか」
「……まだです」
「頼んできたくせに雑談に逸らそうとするな」
「……すみません」
 明日の数学の授業で当たるから教えて! と頼み込んできた綾時と教室に残って勉強会を始めたのが5分前。音を上げるのが早過ぎるだろ。
 綾時は深月の前の席の椅子を反転させ、深月の机の上で問題を解いている。数式の途中で躓いているらしく、唸り声を漏らしながら眉間に皺を寄せている。レアな顔。ちょっと面白い。
「ここ、その公式じゃなくて、こっち」
「え、これじゃないの」
「それだと途中で解けなくなる……っていうか今既に解けなくなってるだろ」
 トントンと参考書の一文を指先で叩く。綾時は首を捻りながら途中まで書いた解答に消しゴムをかけ、指差した方の公式を書き込んでいく。
 今度は躓かずペンが流れていく。
「ホントだ。さすが深月君」
 教えれば理解して素直に飲み込んでいく奴を相手にするのは、教えるのも中々楽しい。
 順平が相手だとこうはいかない。教え終わった頃には疲労困憊で眩暈がしそうだ。いや、以前したことがある。
「よし、解けた。合ってるかな?」
 向きを変え差し出されたノートを見る。うん、合っている。
「良かったー。これで明日は安心だよ」
 肩の力が抜けた綾時はふにゃりと笑った。
 ありがとう、と言われたので、どういたしまして、と頭を下げる。
「で、深月くん、前髪邪魔じゃないの?」
 その話し、一応気になって質問していたのか。雑談に逃げようとしただけ、ではなかったらしい。
「そりゃ、デコ全開の綾時から見たら邪魔かもしれないな」
「デコ全開って言わないでよ。オールバックです」
 綾時の手が深月に伸びてきて、前髪を掻き上げようとするので避ける。捕まったらお揃いの髪型にされるに違いない。
 器用に避け続けると綾時がむくれた。
「視界の半分も髪の毛に占拠されてたら、僕だったら気になって仕方ないよ」
「そもそも、右目は殆ど見えてないからあんまり気にならない」
「えっ」あまりにびっくりされたので、つられてこちらも驚いた。
 そういえば言ってなかったかも。
「……知らなかったか?」
「知らないよ! え、見えてないの、殆どって?」
「左目閉じたら行動不能なくらい、見えてない」
「全然見えてないってこと?」
「ん、そうなる」
 頷く。
 綾時の手が、今度は恐る恐る伸びてきて前髪に触れた。もう掻き上げるつもりは無い様なので好きにさせる。白くて長い、けど節のある男の指が前髪をそっと避ける。普段隠れている右目が晒される。特に視界に、変わりはない。
 見えていない右目を、綾時の目がじっと見ている。
 見えていないものを見られている。何とも言えない居心地の悪さがあった。
 綾時は前髪から手を離し、指先でそっと深月の瞼に触れた。
「全く?」
「触ってるのは分かるけど。せいぜい影があるくらいしか分からない」
「そうなんだ」
 少し淋しそうな顔を見せて、指は離れた。何でそんな顔をするんだか。
「見えないのって、病気か何か?」
「いや、あげた」
「あげた?」綾時は怪訝そうに首を傾げた。「だって君の目、あるじゃない」
 まあ、確かに。
「ずっとあげたって思ってたけど……」
 ちゃんとここに右目はある訳だから、あげたと言うのはおかしいかもしれない。
 右目も見えてないないが、間違いなく自分のものだ。
「どういう状況で、誰にあげた、とかは覚えてないけど、あげたってことだけ覚えてて」
「そうなの?」
「ん、小さい頃だったし」
 思えば今まで何の迷いもなく”あげた”と記憶していたことが不思議だ。考えれば色々とおかしいかもしれない。
 それでも、そう思った今でもやはり右目は、あげた、のだと思う。
 やはり全然、その事については思い出せないが。
「でも君の目をもらえたその人がちょっと羨ましいね」
「今の話信じたのか……」
「深月くんがそういうならそうなんでしょ。いいなあ、深月くんの目、綺麗だから」
 綾時はにこにこと笑ってそういった。するすると口からそういう軟派な言葉が出てくるのはもういっそ魔法のようだ。
 深月はため息をついた。
「綾時の目の方が綺麗だと思うけど。空みたいで」
「本当? 嬉しいなあ。でもやっぱり君の目の方が好きだよ」
 宝石みたいで。って、本当恥ずかしい奴だな。

 気付けば真っ暗な何処かに居た。
 何も見えない。何もない。ここはどこだ。何故、ここに居る。
 確か、そう。橋の上で。煌々と月が照らしていて。誕生を妨げられたせいで存在を構成する破片が散り散りになって。とても不安定で不完全で。
 機械仕掛けの乙女が、こちらを見ていた。
 その乙女に、偶々居合わせた人の子供に押し込められた。
(そうか、だからここは真っ暗なのか)
 あれからどれ程の時が流れたのか分からない。然程大きく時が経った様には感じられないが、どれ程なのか。
 この身は、呼ばれて生まれた物だと思っていたが、そうでは無かったのだろうか。
 望まれていた訳では無かった、のだろうか。
 どちらにせよ、役目は果たせない。ここから出られない。封じられてしまった。
 何も、無い。
「だれかいるの」
 暗闇に声がした。この暗闇に、明るく差し込むように、声がした。
 きょろりと視界を動かす。何も見えない。あの時生まれた自身の姿さえも見えない。
「だれ。どこ」
 もう一度、同じ声がした。
(誰)
 返事をする。暗闇が揺れた。
「やっぱりだれかいるんだ。ねえきみはだれ」
 だれ、と問われ、自らが何なのかを考えた。人にはデスと呼ばれていた。あの機械の乙女も、こちらを見ながらそう言葉を紡いだ。
 それが名前というものだろうか。だが、そう名乗る事は、何故か嫌だった。
(分からない)
「わからないってへんなの。あのね、ぼくはみつきっていうんだよ」
 それがきっかけ、と呼ぶべき出来事だ。

 自分を封じられてしまっている子供はみつきと言うらしい。子供なのにひとりぼっちだという。
 ひとりぼっちのみつきとあれこれと話した。
 実に変な話だ。封じられている身と封じている身で会話など。
 それでも話しかけられれば答えてしまう。最初に言葉を交わした日から幾度と無く言葉を交わした。
 今日の天気の話。昼ごはんの話。近所の猫の話。みつきのお父さんとお母さんの話。みつきのお父さんとお母さんが居なくなった、話。
 何も見えない何も無いこの暗闇では、みつきの存在だけが唯一。唯一、明るい。
(ねえ、空ってどういうもの)
「そら? みたことないの?」
(うん)
「あのね、あおくて、すごくひろくて、きれいだよ」
 みつきの語る話はきらきらとしていた。生まれて直ぐ、此処へ封じられた。だから世界という物の色も形も知らない。知っている物など、砂の一粒に等しい。
 知っている事等、自分が何の為にある存在で、その存在意義を果たすだけの力は失われている、という事だけだ。
(いいな、見てみたい)
「みえないの?」
(うん。ここは真っ暗だから)
「じゃあぼくの目をあげる」
(あげるって……そんな貰えないよ)
「2こあるからはんぶんこすればだいじょーぶ」みつきが、笑った。
 一つの体に収まっているからか、みつきの感情の起伏が伝わってくる。今は、嬉しそう。でも普段のみつきは大概は悲しい。こうして話している時だけ、少し気持ちが晴れる様だった。それを僅かに嬉しいと思う。
 嬉しい、だなんて人間でもないのにおかしな事だ。。
 感情とその名前教えてもらったら、感化されれきてしまったのだろうか。
「ぼくの目をあげたら、おんなじものがみえるようになって、おはなしももっといっぱいできるでしょ」
(そうしたらみつきは嬉しい?)
「うれしいよ」
 きらきらとした色でそう答えられて、みつきの提案を受けることにした。
 右の目を貰い受けた。
 はじめて見た空というのは確かに広くて綺麗で、青色をしていた。

 綾時は早朝、学校の屋上に居た。まだ誰も居ない。
 街を見下ろす。きっと起きている人だって、まだ少ないだろう。
 空はまだ薄暗い。
 青い空はまだ見えない。
 ここから青空を見たら、直ぐに消えるつもりだ。誰か、来る前に。
「この目、君に貰ったものだったんだね」
 綾時がまだファルロスでもなかった頃。その時にこの目を貰った。
 けれど貰って直ぐ、深月が引越し、タルタロスから遠ざかった事で意識は薄らぎ、ひたすらに深い眠りに落とされ意識は途切れた。
 そして次に目を覚ましたのは、実に十年後。
 色々な事を忘れたまま。
 何も知らないかのような、子供の姿で。
(この目は、無くしたくないな。なんて思っても良いのかな)

 青い空の色を映した目。
 大切な彼に、貰った目。
 大晦日まであと10日。