(ファル+主)
時計の針が頂点を指し、そのまま動かなくなる。
辺りは独特の、どろりとした闇に包まれる。今日も影時間が来た。
足を一歩踏み出すように、そっと姿を現す。そしていつもの様に挨拶をする。
「やあ、こんばんは」
挨拶を向けた彼は、いつもの場所には居なかった。常ならばベッドで横になっていて、僕の声に気付きうっすらと目を開けて「またか」とか「こんばんは」とか言いながら、寝ぼけ眼を向けてくれる。
けれど今日、彼は枕に頭を預けていなかった。いつも彼の顔があるところには、ぼんやりとした闇があるだけだ。代わりにベッドの隅で蹲っている人影が一つ。膝を抱えて小さく、小さく丸くなっているそれはまるで影だ。
僕はそれ、彼にそっと声を掛ける。
「どうかしたの」
蹲っていた影がもぞりと動く。顔だけが少し上がり、大きな目がこちらを向いた。瞳の色は暗く陰っている。ああこれは知っている。全てに絶望して拒絶した人間の顔だ。
「何かあったの」
僕はもう一度優しく問い掛ける。
何かあった、なんて明白だ。そんな事知っている。ただ彼が何をどう拒絶して、何にどう怯えているのかは分らない。それまでは、察して上げられない。僕と彼は、同じもの、ではないから。
よどんだ闇の中で、僅かな光を取り込んだ彼の瞳がゆらゆらと揺れている。途方も無い怯えが滲んでいる。痛々しい。
実に痛々しい。
ぱちりと瞬いた彼の目から涙が零れた様に見えた。だけれどそれは錯覚で、再び開いた彼の目はひたすらに乾いていた。
「……人が死んだ」
からからに渇いた彼の喉が、やっと一言を発した。搾り出すような掠れた声で。
人が、死んだ。
死んだ。
そうか、このどんよりと取巻く匂いはそれか。僕は息を深く吸い込む。
「……撃たれて……あらがきせんぱ、いが……」
「そう。それは悲しいね」僕はまるでぺらぺらな同情の言葉をそっと差し出した。心を込めて言ってあげたかったが、どうにも僕はそこに込めるべき感情が分らなかった。
彼は視線を宙に泳がせて、空気をぱくりと飲み込み、目を伏せた。「俺が、居るせいで人が死ぬ」
そうやって、飲み込んだ空気を必死に押し出すように呟いた彼の目には、真っ暗闇が広がっていた。
彼の周りには死がついて回った。
どこへ行っても、何処へ行っても。人が死んだ。
ある時は預けられた家の祖父が。ある時は、通う学校の担任が。ある時は。ある時は。ある時は。
(あんまり死と出会い過ぎるものだから、死神、とか言われた事もあったけ)
兎に角彼は死に好かれていた。愛されていたといっても過言ではない程に。傍にあり。離れられない。
幼い頃から死に晒された彼が、ずっと怯えていたのを僕は知っている。それでも彼は、少しずつ麻痺していった。まただ。またか、と。慣れていったのではなく、麻痺していった、感覚を外に奪われていった。
そんな彼でも、とても身近な人間。一時でも同じ寮で暮らし、共に戦った、仲間、と呼べる存在を失った事はショックだったのだろう。
細い糸で繋がっていた彼の死に対する感覚は、ここにきてプツリと切れてしまった。そして怯え、自分のせいと嘆き追い込み、ベッドの隅で蹲っている。
「どこに行っても誰か死んだ。だから、だからきっと、先輩も俺が居たから死んだんだ」
今にも泣き出しそうな、からからの瞳で彼は嘆く。誰かが死ぬのは自分のせいではない、という僅かな望みも絶たれたに等しい。今の彼にとって、この世の死は全て自分のせいにも等しいのだろう。
「そんな事無いよ」僕は心からの言葉を言う。これは本心でもなく、ただ事実だ。
「いいんだもう、もう……」彼は首を振って頭を抱え込んでしまった。
小さく小さくなるその姿はただ痛ましい。僕はベッドに膝を掛け、よじ登る。手を付き膝を付き、ゆっくりと彼に近付く。ぎしと揺れるベッドに、近付いてくる僕に、彼は気付きながらも顔を上げない。動かない。閉じ篭っている。
「違うんだよ」
僕は彼の目の前に座り、見えない表情を覗き込もうとする。
「君のせいじゃない。君が居るから死がやってくるんじゃない。死があるところに、君が呼ばれるんだ」
正確に言うならば、君の中に居る、僕が、引寄せられるのだろう。死が、僕達を呼ぶ。彼が居るから人が死ぬのではない、死が僕達を求めて呼ぶのだ。それに引寄せられているに過ぎない。
「……どっちだって一緒だろう」
くぐもった声が聞こえた。僕は否定する。
「少なくもと、誰かが死ぬのは、君のせいじゃない」
「でも、……俺が居るところで誰かが死ぬのに、変わりはない。嫌だ、もう、いやだ」
震える声色はただひたすらに痛ましい。握り締めた、彼の震える指先に触れる。悲しいほどに冷え切っていた。
直に影時間が空けてしまえば、僕はもうここに居られなくなる。傍に居てそうじゃないと否定してあげることも出来なくなる。ああ悲しい。
人の死に怯える彼を支えてあげるにも、抱き締めてあげるにも、僕はあまりに小さい。